寺門宗の回向略作法はいくつかあるが
十如是 自我偈 本覚讃
光明真言 念仏といったスタイルが基本でこれに足したり変えたりがある。
短いなかに法華経信仰の迹門・本門 念仏信仰 密教が取り入れられ余すところがない。
比叡山・天台宗でも基本はほぼ同じと思うが・・・
短いのでその気になれば暗記できるだろう。
あとはこれを軸にほかの御経や陀羅尼など付け足せば膨らむ。
お経は誰が唱えても功徳に変わりはない。
密教は真言受持の規定があるからものによりけりでそれができるか否かによるが光明真言や隋求陀羅尼においてはただ受持するだけで大きな功徳が受けられる。
だったら、なぜ僧侶を呼ぶのか自分で拝めばただで済むのに勿体ないという人がいるが・・・それはあまりにこころ貧しいいやしい考えである。
僧侶に布施をしてきて読経にいただくのも、故人はもとより生きているものにも大きな功徳になるのだ。
すなわち仏法僧への帰依と供養である。
仏は本尊。読経は法だが、僧の供養を欠かしては全きを得ない。
中には妙な僧侶もどきもいるからそれは例外だがまじめに修行した方ならどなたでもいい。名僧知識とは限らない。
以下な僧侶も凡夫と違う存在ではない。
日蓮上人は仏の功徳に報じるのは末法の僧に供養するしかじと言われた。
釈尊に比べて末法の僧侶自身の徳は極めて小さいものかもしれないがそこを通じての感謝は釈尊への報恩となる。
まあ、僧の端くれである私が言うのもくちはばったいが。
なぜならいかな凡僧であれ、そうした僧侶以外にこの世に仏法の担い手はいないからである。
僧に布施することは仏法への供養の大切である。
すなわち僧の修業を自分が助けることにより功徳を共有できるからだ。