少々難しい質問
顕教の御祈祷と密教の御祈祷はどう違うか?
真言宗などでは顕教は密教には及ばないという見解である。
日蓮宗では逆に密教はじめ諸経の説くところは総じて法華経に及ばぬと考える。
天台は両方あるがどう考える?と聞かれた。
天台は顕密双修だからだろう。
そこに優劣は言わない。顕密一致
だがおのずと違いはある。
私が思う範囲で言えば
法華経に代表される顕教の読経祈祷は全体的に仏の加護が得られて余すところはない。
ただ密教祈祷の様に六修法を目的別に使い分けピンポイントの利益を祈るようなところはない。
これによって二種を使い分けるべきだと思う。
前者は経典の持つ功徳を受け、後者は仏菩薩の誓願による。
卑近な例えだが治療や薬で病を癒しても基本的には養生せねば真の健康は得られない。
養生に努めても、ひとたび病になればそれに適した治療が行われるべきだ。
ともに健康を目指すがあり方が違う。だが両方必要だ。
健康養生と治病医療を比較して優劣を付けるなど意味なきことだ。
日蓮宗さんの御祈祷はいろいろ呪符があり、祈願にも五段加持など使い、独特の秘伝口伝も多く、大変興味深いが、天台ではあくまでそれは密教のすることである。
とはいえ別に日蓮宗の祈祷はまったく否定しない。
ただ天台の法華経はそういう密教に見るような呪術的な方法を用いず、天台大師の示されたようにただただ読むことをはじめ、あくまで読、誦、解説、書写、受持の五種の修業によって如来の功徳を表すやり方だと思っている。
読経前に護身法をし、洒水加持などを行う、天台には顕密あいまった作法はあるが法華経自体はあくまで法華経で読むだけだ。
陀羅尼品も読むが日蓮宗の様に陀羅尼のみとか、特別な読み方とかはない。
したがって顕教の読経による祈願は一般の檀信徒でも行える。
礼拝経典を回向に限らないで祈願としても読めばいいだけのことだ。
これに対して密教は薬剤師や医師の扱う医療のようなものなので知識や経験もいる。
私においてはそのように考えている。
太平洋戦争中、三井寺では政府の戦勝祈願に呼応して「観音経」を読んだという。
不動法や金剛童子法 大威徳法などの調伏修法はしなかったと聞いている。
この話を聞いて拍子抜けはしたが・・・
今思えばこの対応は敗色の濃い日本の行く末全体を丸く収めるためにはとるべき手段だったと思う。
戦国時代ではないから調伏祈祷をもってピンポイントでマッカーサー将軍やニミッツ提督の首を挙げても戦争は終わらない。
もっとも観音経にも「衆怨悉退散」というような強い言葉もある。
怨敵退散で読む場合はこれを三度繰り返す読み方もある。