だから木剣も呪符も当初にはないはずなのです。
日蓮様はひたすら唱題だと思います。
あえて優劣を言うなら題目が重い。そうでなければ日蓮宗の信仰とは遊離している。行の正宗分は題目でしょう。
私は天台なのでそこの優劣はない。本義で言うなら法華経の読経。目的別でしょう。
別に本来はないからいけないなどと野暮なことを言う気は全くない。
もっとずっと古い修験道だって同じですね。
もともとは皆誰かが作ったわけですから。法華経の経文だってそう。
私は祈祷なぞ験があるならなんでもよいと思っている。
系譜がどうだろうが三国伝来だろうが験がないなら祈祷の世界ではなにも意味はない。私はそんなことには全く興味ないですね。
ただ読めばいいのだと思う。
応病与薬の密教のようなものでなく、飲めばザックリ全体に健康になる滋養ものみたいな存在。目的別の祈願法はない。
あえていうなら滅罪は自我偈、敬愛・増益・息災は普門品偈や神力品。調伏は陀羅尼品みたいな感じはあるけど。
あくまで「あえていうなら」です。
拙寺は観音さんですから普門品偈は良くあげます。
でも本来効験別のそういう区分けはない。
「この経の一句、一偈をもっても功徳莫大」と言っているのだからどれ読んだっていいんです。
要は功徳、つまりお経の徳による効験。
専門的にやるなら法華三昧(略儀が法華懺法)だけどこれは滅罪法です。
なにかをもちこむ祈願のイメージじゃない。アユールヴェーダみたいに要らないものを捨てていく。
そして本来の仏性をあらわすというやり方。いうなれば補ではなく瀉の祈り。
法華経に限らず経だての御祈祷はね、細かいこと考えないで「これは効くぞぉ・・・」と思ってやってください。
そしたら効きます。