天台密教の法華供に「無願三昧」と言う言葉がある。
「法華供」とは密教作法の中で法華経を拝む方法だ。
一応は滅罪生善。仏果増進のための法である。
そもそも何も願わない三昧とは何だろう?
それじゃバカみたい?
法華法も祈願である以上何かを望むから行うのだ。
それは間違いない。
では何を望むのか。
それはなにをしたいのかで動くのではない。
何をすべきなのかで動く。
たぶんそういうことだと思う。
武術で言えば正面から叩き込む正拳突きのようなものではなく、合気術や太極拳のように相手に即して動くやり方に似ている。
何をすべきか、何を願うべきかは状況しだいだ。
正しい願いとは状況に即したものでしかない。
私はそれが無願三昧の祈りだと思います。
法華経の読経による祈願も基本的に言えば目的志向でなくそういうことだと思う。
何が必要なのかは内在の釈迦が知っている。そのための祈り。
そこが台密の真骨頂ではないかと勝手に思っております。