私も使っている聖天供の次第に「無相無願三昧」という言葉がある。
無相とは形なき事。
無願とは願わざること。
形にしたい何かがあるから祈るので、普通は無相無願ではなく有相有願だからこそ聖天様の祈願なのだが・・・
だが私なりにはよくわかる言葉だと思っている。
人の真実の幸いは必ずしも思うことが形になることでもないし、願いが叶うことでもない。
そんな風に実際に思い通りになっても案外感動は少なくつまらぬものかもしれない。
あれほど願っていた理想の人との結婚もいざしてみればどうということもなく、念願のマイホームもたてば、それで当たり前いつまでも感動があるわけではない。
幸せはそういうスタイルにこだわりすぎると、叶ったところで時として料理のない立派なお皿のようなものでしかなくなる。
真実の人の幸せは納得して生きられることだ。
無相無願とは願いはどうあれ聖天様の下さる人生のサプライズに喜ぶということ。
もちろん、願いは願いとしてあってもいいが、常に聖天尊が見守っているということに替えられるご利益はない。
祈願は叶わなくても無駄ではない、祈りは一念三千の理によって消えることなく宇宙の隅々まで言って必ず何かの姿になる。それが何かまではわからないがそれが最善だと信じること。
それが無相無願三昧。