昔、文豪川端康成先生は鎌倉市内に住んでおられた。
その夫人は大の聖天信者であった。
ある時から夢枕に血まみれの鎧武者姿の人が立つようになった。
勿論この世のものではない。
恐ろしくてしょうがないが、あまりに毎晩出るので思い切って「私に何か御用ですか?」と尋ねた。
亡霊は「・・・実はあなたに頼みがあるのだ。ここより真東の寺にある聖天様に私に代わって願ほどきをお願いいたしたい。それがしは生前に聖天様に願をかけはなしにして死んでしまたった故にこちらでその報いあって大変苦しんで居るのだ。どうか頼む。」とのこと。
そこで夫人はさっそく東のそれと思しき寺を見つけて行き、事の次第をお話しすると住職は「お話はわかりました・・・でも困ったことに聖天供をできるものが拙寺にはおりません。」とのこと。
それで仕方なく当時足柄山にいたという霊験が確かという聖天行者を探して頼んできた。
行者さんは一目見て「この聖天様は荒い!それで不動尊で抑えてあります。まずそれをどうにかしないと…」と言って7日の断食をして封印を解いたが、一難去ってまた一難、聖天様を祈るには今度はその寺に十一面観音がなくてはいけないという。
当時お寺に尊像はなく、夫人は今度は市内の鎌倉彫りの名人菅原史龍師を訪ねて丈六の十一面観音を彫ってもらいお寺に寄進した。
この夫人は武士の亡霊が見込んだだけのことがある。かかわった以上は実に徹底している。ここまでする人はまずない。
が、夫人は聖天様がどんな仏かよくよく承知していたということでもあろう。
それでついに十一面観音を寄進し、はれて願ほどきをなしとげた。
その後そのご褒美か否かは知らないが川端康成先生はノーベル文学賞に輝いた。
この聖天尊は関東には珍しく木製の丈六像で、関東大震災で天堂が崩壊しても屋根を貫いた厨子が屹立としていたという霊威鋭い尊像である。
私も若いうち個々のお寺の住職をお尋ねして聖天様のお話を聞いたが御住職は「私は先代から聖天浴油だけはするなと言われているのでしません。先代も浴油は間違いがあれば大変なことになるというので油多羅の中に鏡を措いてそれに向かって杓が尊像に当たらないように浴油するとか言っていましたが・・・」とのことだがほとんど実際は修法はなさっていなかったらしい。
聖天様のお礼参りはしないといけないのは皆、聖天信者ならわかっていることだ。
しかし願掛けして死んでしまった分はなかなか思い至らない。
この話の亡霊のように、なにかで死んでしまってもやはり願ほどきはした方がよいのである。
死んでしまったんだからそんなの要らないと思うだろうが聖天様に落ち度があってなくなったわけでないからそこはお礼をしておくべきなのだ。
拙寺では病の御祈願をして、残念ながら亡くなってしまった後も「願ほどき」はしておかないといけないとそう指導している。
そうでないとこの話のようにあの世で亡くなった者が苦しむことになりかねないと危惧するからである。
自分自身が信者ならもっとよいのは最晩年は欲願を祈らないで威光増益の祈願のみを縷々祈願し、
報恩の信仰で最後のしめくくりとすることである。