皆人間は夏休み、冬休み、ゴールデンウイークなどにバカンスに行くが、聖天様にもそれは必要だ。
年に一回くらいの浴油をするととてもお喜びになる。
聖天様の祈願寺ならそれは日常茶飯事だが、大きいお寺でも日ごろ聖天様を拝んでいないところは年に一回くらいはご住職、ご住職が知らないなら法類で知る方に預けるか。もっと良いのは浴油を授かってきてご自分がされること。
葬儀が忙しい寺などでも一座なりとも修したら違ってくると思います。
尊像を持つ在家などでご利益欲しさに求めて開眼したはいいがもう拝まなくなって埃まみれでいるなどというのはもってのほかである。
聖天尊はもとより在家が持つ尊像を持つものではないとされていますが、もし勧請するなら雨の日も晴れの日も聖天様とともに笑いそして泣く覚悟がいる。
大事なことは人生は晴れの日ばかりではないのだ。ときには大嵐の真っただ中という時もある。
そんな時、「もう聖天様なんか信仰しても無駄だ。」と放り出す。熱意も失せる。
そういう人は早々にお開眼してくれた寺と相談しておさめたがいい。
その場合ただで収めてはダメです。それではていよく捨てるのと同じ。
納めさせせていただくにはきちんとそれなりの奉納が必要。
そうでないと聖天様は肩身が狭い。それは最低限の礼儀です。
私の知る例で長年拝んでいたのに、もう年だから家でも拝めないと放り込むように壇や法具もろとも聖天様を、いきなり自分の信仰していたお寺にもってきて措いていった人がいるという。
そののちまたやってきて、「私の納めた聖天さまを見せろ」と言って、見せたら「これはちがうじゃないか。盗ったな!」と怒って取り返し、よその寺におさめにいかれた。
そもそも自分の聖天様だからと言って行者でないものが勝ってに見るものでもないし、納めた以上は寺のもので盗るも盗らないもない。
まあ、失礼ながらそこは多少認知症が入っておられたようだ。
怒りのあまりいきなり鷲つかみに尊像を持って二、三度床に取り落としたらしい。
あなたのはそれじゃない!と言って取返し、件の尊像を渡した。
そのあと尊像をよそにおさめた帰路に発作で亡くなったと聞く。
なんのために信仰をしてきたのかわからない一生だ。