私の師匠は理趣分が得意で毎日拝んでいましたが、別座でそれを拝むことは少なかった。
師匠は理趣分一巻読めば護摩をたくくらいの功徳があるとまで言っていた。
そのくらい理趣分を信仰していた。
私も師匠を見ていてその効験は息災、増益、敬愛、調伏、延命、鉤召の六種に及び、十分密教に拮抗しうるという認識でいる。
だからこそ顕教でご祈願をしたいという人には前行に読誦一千遍を課する。
でも師匠は「そういう強い祈祷を個別で頼むには相応の祈願でないといけない。つまらぬ祈願でこういう尊いお経を軽々しく拝んではいけないものだ。」という認識でした。
世間にはキップがいいのか。金満家なのか、なんでも思い切りいい最高の御祈祷でして下さいという人もいる。
祈祷所としてはいいお客さんだと思うが…師匠に言わせればそれは本来の大檀越の在り方ではない。
檀越というのは檀那と同じ意味。お寺のダーナつまりお布施をする人。
大檀越とはすなわちお寺を支えるような力ある信徒を言う。
私が師匠から聞いたのは大檀越というのはお金を払って最高の祈祷をいつもする人ではないということです。
そうではなく相応の祈願をして、いざという時に喜捨を大きくするような人が大檀越の在り方です。
つまり自分の欲願でお金を山と使うのでは無く、純粋に本尊や寺や信徒のために喜捨する人にこそ徳というものがあるのだということだろう。
欲願でいくら使おうとそれはその人だけのことです。期待は厚いのだろうが信仰が厚いと限らない。
師匠はなんでもかんでも「祈るなら一番良い浴油で祈ってくれ」という人には「この祈願にはそんな必要はない」と言って一切取り合わなかった。
それはかえって罪業になるとまで言っていた。
世のなかには高い祈祷を頼む人ばかり大事ににする寺社もあるがそれは少し違うと思う。
行者は目の前に人参をぶる下げられた馬のように見境いなくなってはもはや行者ではないだろう。
「在り方」こそ動かすことなく大事にしなくてはならないのだと思います。