「喜」はこれは衆生とともに喜ぶ心。
自分の善き利他の行いを楽しめる心。
これは観音の三昧であり。さらに歓喜天の心の究極でもあると思っている。
仏教の善行はしかつめらしく行うのではない。
「犠牲」というような辛気臭いこころと無用だ。
「清貧」とも無用だ。
正しくあれば、必要なものは整うから貧しくなどということはない。
伝教大師の言われる「専ら衣食を求めるこころのなかに道心はない。道心のなかにこそおのずから衣食はある。」と通じる。
世の中の生き物は本来天与の必要十分なものをみな備えている。
貧しい生き物などいない。
同時に無駄のある生き物もいない。
鳥の翼はどこかから手に入れたものか?
魚のひれは魚がどこかで買ってきたのだろうか?
ひれが貧しくて買えない魚、稼ぎがなくて羽が入手できないで苦しむ鳥はいるのか?
人間は巨大な脳みそがあるので直立になったと推測されている。
でも本当にこんなに大きな脳が生物としての人間に必要だったのかは生物学的に議論があるところらしいが・・・。
仏教的に思うならそれは人間が思い悩むためにあるような気がする。
煩悩を生み出すためにあるのだ。
だが煩悩がやがて菩提に変じる。
そこに無駄はないのだ。
本当の「喜」は其のすでに備わっていることを喜ぶ。
その最たるものは「仏性」だ。
すでに備わっている仏性を喜ぶ、それが外に向かえば「慈」であり、己れに向かえば「喜」となる。
ゆえに正法蔵であり、これを観音の三昧とする。
ここにいう正法とは無駄なく、必要十分な法の真如のありかたをいうのだと思う。
観世音菩薩の利益も同じく。必要なものをくだしおかれ無駄はない。
観世音は現世利益の仏として知られている。
だが、いたずらにお金をほしがって観音に祈っても必要がないと思召せば与えられることはない。
真実に必要なら何億、何十億であろうとも整うと思う。
それは祈願している身からもそう感じる。
ではその観音の「思し召し」なるものとはなへんにあるのかなにか。
それは正法にかなうか否かだろう。