「かくのごとく我聞く
ひととき仏、補陀落山にましまして衆のために説法す
その時、観世音菩薩 仏にもうしてもうさく
我に神呪あり もし衆生あって受持するものあらんに
一切の病患 憂苦を除却し 一切の悪業煩悩を消滅す
身口意をして みな清浄なるを得せしめ 心中の百 千 万 億のこと
成就せざるは無し」
如是我聞はお経の出だしの慣用句。
要するに聞き手の立場でお経は説かれます。
話し手の立場ではない。
だからお経の中身は御仏より我々に近いスタンスで書かれているのです。
そこがまずありがたい。
凡夫の我々と同じ立場で「こう聞いたよ」と教えてくれるのがお経です。
補陀落山の説法の座にあって観世音菩薩がみほとけに対して申し上げました。
補陀落山というのは南海補陀落浄土といって観音様のお浄土です。
お浄土と言えば極楽とか霊鷲山を想うが、この浄土は観音様が開かれたお浄土です。
根本煩悩である無明の惑は断たれていない世界。
観音菩薩は菩薩でありつづけるほとけです。
そこには意味がある。
実は観音様は極楽の阿弥陀様の化身です。でも我々との接点を強く残してくださるからあえて煩悩を少し残されているです。
その観音菩薩が御仏に申し上げるには私には秘密の真言があります。
衆生が受持するなら病気や憂苦、悪業の因となる煩悩を消滅せしめ
我々の身も心も所作も清らかに心中のあらゆる無数のことはみな成就すると。
いくら観音様の真言だろうがそんなに凄いことってあるでしょうか。
少し考えればわかりますね。形の上では私たちは皆病気もしますし、ある程度の年になれば持病もある。
しまいに死ぬ。
あらゆることが叶うどころか思いに任せぬことだっていっぱいある。
実際はむしろあれもこれも想いに任せない苦の娑婆です。
でも、人間は観音様の霊威にあずかる時。「嗚呼。本当に仏はあるものだ。」と心を強くするものです。
それで初めて仏の加護を知る。ああ、観音様はいるのだと知る。
それはとても大きいのです。要するにこれは救いに対する信を得たよろこびを現しているのだと思います。
たとえどんなに難しい病が治っても死なない人はいない。しまいには皆死ぬる。病気しなくても年を取る。体は弱くなります。
当たり前ですよね。
「しまいにやはり死んだじゃないか」と言えば仏の加護などなにもないということになる。
何でもあって当たり前の生活観念では仏の加護は気が付きません。
苦の娑婆を知ればこそ有難いという気持ちや守られているという気持ちになる。
仏教でいう八難所に長寿天とウッタラグルというのがある。
長寿天は寿命が極めて長い天界、インドの宇宙観では上の天界程寿命が長い。
容易に死なない。
ウッタラグルは北倶盧州というすごく豊かで恵まれた異次元世界です。
こういうところの衆生は仏道に心しない。
仏縁が育たない八難所に数えます。
幸せ、長寿、無病が当たり前だから。
そういう世界があるなら是非行きたいな~という人もあるでしょう。
でもこういう世界はそれが当たり前だから生まれてみれば喜びがあるとはかぎらない。
今此の娑婆にいるからそう思うだけです。
でもどこに生まれても死はある。
死んで次の世界はまたどうなるかわからない。
ましてやこの人間世界は今良くても明日も無事とは限らない。
人間の文明も仏教が初めてもたらされた奈良時代、平安時代に比べれば現在はもう天界みたいに便利で快適です。
それでもまだ天界でも帝釈天と阿修羅の戦争があるように戦争もある、飢餓もある。なおらぬ新手の病も次々でてきます。自殺もある。
だからそう言う形の上では
「衆生が受持するなら病気や憂苦、悪業の因となる煩悩を消滅せしめ
我々の身も心も所作も清らかに心中のあらゆる無数のことはみな成就する」ということはない。
若し本当にあればあるで当たり前になってしまうのが人間。
一番肝心なのはそんな苦の娑婆で生きている我々をみ仏はみそなわしてくださるということです。
その喜びこそが信仰です。
だから天台宗の伝教大師が始められた十二年の籠山行もひとえに「一験」を見るためにはじめられた。
「一験」
仏を信じるには験が必要です。
だからご祈祷も本当は病気が良くなったとか、再難から逃れたといったことが叶うこと以上に、そこで「ああ。観音様はいるんだ!守られているんだ‼」という思いで生きていくことが一番大きな御利益なんですね。合掌
つづく