菩薩を「覚有情」と訳す。
「仏心とは大慈悲これなり」と大無量寿経にある通りだ。
その仏になろうというのが菩薩。
金剛経の大家・濱地天松居士は「悟りてなお情け有り」とよませた。
情けというのは煩悩だ。
情が立ちがたいのが人。慈悲も見方を変えればただの煩悩。
その煩悩をバッサリできれば阿羅漢のような聖者になれる。
だが大乗菩薩はそうではないという。
菩薩に最も大事なものは慈悲だ。
煩悩をバッサリやれば慈悲も同時に消える。
わが師にも修行の一番初めに「煩悩はね。断つんじゃないんだ。
渋柿の渋が干したら甘くなるようにするんだ。それが修行。」と教えられた。
当時はなんだかさっぱりわからなかったが、今は少しわかるような気がする。
大乗の道へ行こうとするもの、怒り・悲しみ・好悪・喜び…皆その裏には慈悲があると考えるべきだ。
無惨な行為を見れば怒り、衆生が死ぬれば悲しみ、衆生とともに喜び楽しむのが人の道。
すべて、諸行無常・諸法無我と割り切って流すのが羅漢道
諸行無常・諸法無我とは知りながら人の道を離れぬのが菩薩道。
悟りてなお情け有り。