修験道の本尊は不動明王
なぜ?大峰山は全く遮那(大日如来)の直体というのだから大日如来じゃないの?
無論大日でもいいのだが不動をあえて言うの何故か?
不動明王は大日如来の垂迹。教令輪身と言われる諸々の強剛難化の衆生を教化する姿。
これらは単に仏教神話から末世だから衆生の機根が落ちているのであえて不動明王がいいとかではない。
私も含め衆生の機根などはじめから落ちている(笑)
一言で言えば修験道は現世の教えだからです。密教以上に。
寂静相の大日如来も現世の様々な困難にあっては、そのままの寂静相ではいられない。
誰も寂静相では生きていけない。仮面うつ病になるほかは(笑)
不動明王には仏教で最もいけないという煩悩の瞋りがある。
この瞋りは世の中が面白くないから起こるのでもないし、衆生のために仮に怒ってみせるとかではない。
本有の瞋りだ。それを大憤怒と言う
生命すべてに備わる瞋りだ。
これがわかるわからないで修験も密教もわかるわからないがあると思う。
故に般若経の理趣分に「智密忿性調伏法門」がある。
仏には憤怒がある。
ないなら不動明王もいない。理趣分で言う転法輪菩薩もいない。
つまり理趣分にみるように仏には憤怒という煩悩ありというのが修験の立場
煩悩とあえていったが、ただこの煩悩は煩悩でも迷いではない。
見惑でも思惑でもない。
智慧の瞋りだ。
形は煩悩でも中身は知恵だ。
頭で考えた智慧じゃない。本有の知恵だ。
命を生かす瞋りだ。
だからどんな小さな虫でも、アリでもつかまえようとすれば怒って噛む。
煩悩の瞋りは智慧じゃない。
いらぬことで怒ってはいないか?怒るべきか考えて怒ってはいないか?
分別智の瞋りは少なくとも本有の瞋りではない。
たとえば、・・・いいかえれば全ての生き物は煩悩によって生かされている。
例えば殺生、全ての生き物は殺生相に住している。
それを否定すれば灰身滅智し存在しなくなるほかない。
しかしながらそれは大乗のいう成仏ではない。
凡夫は三毒に翻弄され三悪道に陥る。
仏は三毒の衆生を三毒をもって救済する。
怒るときには徹底して怒る。
それじゃなきゃ生き物じゃない。
生命でもない。