金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

荒神の二つの姿


聖天様を拝んでいると真言宗の碩学、故永田覚範大僧正の言われていた「荒神供は聖天さんやるならしておかにゃいかんのです。」というのがわかるように思います。

永田大僧正には一度真言宗の方たちとともに勉強会に誘っていただいて親しく教えを頂戴しました。もう大昔の話です。
永田先生、同じく故野澤密厳猊下、はじめ真言宗の皆様にはよくお世話なりしたし、個人的には弘法大師様も信仰しております。

「アンタの守護神は弘法大師だよ。あんたは真言宗に行くべき人だ。何故ほかの宗派に行ったのか?」とある霊能者にもきかれたことがあります。
「!?」
まあ、そんなことはどうでもいいが、話は荒神さんです。

憤怒の荒神さんは元品の無明と言ってわれわれの末那識の神格化です。だけどそれだけではない。迷いの雲晴れて転識得智すれば悟りの姿、如来荒神になる。
如来荒神は六臂金剛薩埵の姿。
愛染明王のように宝瓶に載ります。
永田先生は行者が拝むのは如来荒神だといわれていました。
そういえば天台玄清法流でも拝むのは道場観から見て如来荒神です。
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                         如来荒神像

三井寺では実は荒神は十二臂大日で「大勝金剛」という。
この思想は真言三宝宗の「清荒神」様でもいっしょみたいですね。

色々調べましたが最も大事なことは荒神さんは私どもの心識そのものだということです。
自分の心を拝むわけですね。密教で言う普通本有の大日、仏性を拝むのと同じだけど、煩悩具足の存在であるこの心をまずそのままに見つめて拝む。
これは修験道の思想がわからないと理解に苦しむところです。
つまり煩悩をはなれずして仏意の所作を行うということです。
それが即身成仏。
煩悩がないなら完全に無漏の成仏だけど。
煩悩を忘れちゃいけない。本有の如来も忘れちゃいけない。
両方とも目が離せない。

だから荒神さんには二つのお姿がある。

今度の13日には真言宗の阿闍梨様をお招きして荒神供の伝授を頂く予定です。天台流とはまた少し違います。