三宝荒神は万人の「うぶすな神」諸神祇の「あらみたま」という。
そのむかし、永田覚範和上からお授けをいただいた折、荒神の話を個人的に少しうかがった。
その折「祈願の道場にはぜひとも荒神が必要だ」というお教えをいただいた。
「ましてや聖天供などするなら必須ですよ」とのことだった。
それはのちに和上のご本を拝読したら同じことが書いてあった。
思うに荒神は我々の魂の神格化だ。
ここで魂というと抵抗ある仏教徒もあろう。
たしかに仏教に「魂」ということはいわないというが、明確に言う
ところのはバラモン教でいうアートマンの否定であって、日本流の魂をいうのではない。
アートマンとは「魂」というより我々の宿す「神我」とでも訳したほうが妥当と思う。
宇宙の神意識ともいうべきブラフマンと対の言葉だ。
ここで「魂」というのは霊の意味ではない。
むしろ共通の無意識とでもいうべきだろう。
家系には家系の
郷土には郷土の
国には国のそういうものがある。
霊のレベルではそれは意識されない。
「共通の無意識」というなら個人にはないのか?というとそうではないと思う。
個人には個人の輪廻を繰り返して培ってきた「魂」がある。
それを仏教的に理解するならば阿頼耶識に集まる異熟の癖というか「薫習」である。
この魂に直結する神が荒神。
つまるところ、我々が無意識に言っているそうした魂という概念の集合体なのだと思う。
ゆえにきわめて因縁の深い問題はいうなれば霊ではなく魂を癒さなくてはいけない。
個々の霊を慰めても因縁は必ずしも解けない。
魂というその人の異熟の癖をただす。
それが「荒神」を供養することにつながるのだ。
ある意味、荒神は我々そのものでもある。
和上はそういうことまではおっしゃらなかったが今思えばつまるところ私はそう思う。
言ってみれば荒立つ忿怒荒神は自我意識である「末那識」であり。六臂金剛薩埵であらわされる「如来荒神」は仏性であろう。
末那識を転じるとはそれを切り捨てるのではなくカキの渋が甘味に転じるのと同じだ。