風狐、未明に来りていう。
「八面八臂の大荒神。
荒神と一切衆生の未生前の主というが、此れは一切衆生の生きるさまなり。
自身荒神なりというはこの意なり。
八面のうち五面は忿怒にて煩悩の表示ぞ。
財、色、食、名、睡の五欲なり。
これ、五欲を以て世を渡らんとする生き物の性なり。
それはおのずから忿怒となりて意を振るうごとし。
しかるに頭上の仏は三世常住の仏。
「已成」のほとけ。
我等にも存する仏性である。
仏性をいただきながら日々あくせくと煩悩のおもむくままの所作をするのが衆生だ。
八臂もその時はあれこれと手を伸ばしておのずから生きようとする手にすぎない。
だが、おのが頭上に仏あるを知ればそれは変わる。
違いは何か?
仏性に生かされている大安心を頂きてこそ、忿怒荒神変じて如来荒神の姿になるというものだ。
その時こそ八臂の働きもおのずから如来の意を帯びた仏の所作となる。
生きていると生かされているの違いだ。わかるか?
生かされていることがわからないならそこに安心はないのだ。」