羽田談 冥福とは何だ!と怒鳴ったという無知な僧侶。
だが実際、浄土に行く人は多くないと私は思っている。
はっきり言ってそういう理想論を堂々と語るの死ねば終わりだということと一緒であるからこそ言えるのだと思っている。
死ねば終わりなら極楽だろうが天国だろうが気分良く死んだほうがいいだろう。
真宗では聞けば、全員が決定往生なのだそうだが、それは密教の第一三昧耶と同じことでこの身このまま仏性を宿すということの言い換えに相当する。
真如実相の目から見ればそうだろう。
全ての人は往生が決定している。そういう表現であってもいいかもしれない。
法華経の「わがこの土は安穏して天人常に充満せり」の境涯はいってみるなら「すでになれる極楽往生」と同じことと思う。
だが具体的な現実の差別相においてはそんなことはあるまい。
遺族は安心したいのだから「衆生は本来仏なのです」「あの世はない」というような話を聞かされた日には、そこにいかなる追善回向も反映されていない。
これで納得できるのだろうか。
そういうレベルは一生懸命拝んでも拝まなくても一緒の話だから、言うも愚かだ。
私にはすべての人がすでに極楽往生しているというような話より笠置山貞慶や明恵高弁のような極楽往生について厳しい目を持った人々の方がはるかに心を打つ。
彼らにとってはむしろ彌陀の本願・十念往生は難信難解であったのだろう。
貞慶上人に至っては極楽浄土をあきらめて観音の補陀落浄土を目指したという。
実に実際的な考えだ。そうでなければ無数に存在するという浄土の存在、その意義は全くもってないことになる。
悪いがお葬式の席で「全員もれなく極楽に行けますよ~」みたいなグリコのオマケみたいな話には興味ない。