朝題目の夕念仏は天台系の宗風。
それを聞いた人から「天台では念仏と法華経とは同等のあつかいなのですか?」という質問がありました。
「だったら法華経の止観や密教の錬行などするより念仏が近道。
10編唱えたら往生するのだから。そうではないのですか?」という。
一応そう聞けばそう思うのはもっともかもしれません。
天台では己心の浄土ということをいう。
お浄土は場所じゃなく境涯なんですね。
その境涯は刻苦努力の錬行をしていきつく境涯と同じ。
それが念仏十念すれば至れるのか?
ここのところをいえばもとより我々は真如と離れていないという。
我々だけでなくこの世がそのまま真如。
法華経にいう「たとえ衆生、劫尽きて大火に焼かるる時も、わがこの土は安穏にして、天人常に充満し 園林、諸々の堂閣、種々に荘厳をなす」と同じこと。
だから法華経を大念仏、念仏を小法華という。
これは法華経は念仏往生の極致 念仏は法華の初門という意味だと思う。
この念仏に対する考えは華厳経に言う「初発心時便成正覚」と同じでしょう。
このことを信じれば何も死ななくても「即得往生」のはずだ。
生きていても死んでいても同じ。
天台には実際に、吸う息は来迎、吐く息は往生と観念する素晴らしい行法もある。
念仏にも色々あるわけです。
私も様なものには護摩1000座焚くより、「十念往生」をそのまま素直に信じることの方がはるかに難行ですね。
ただし、どちらが良いはない、すべてその人の業や機根のしからしむる処と思う。
ついでながら「往生浄土」はそのまま悟りではない。
思うに、それは安心(あんじん)なのです。
安心無くして仏道の修行はならない。
これも大事です。
極楽往生の後、「面逢彌陀種覚尊」といって阿弥陀仏や諸仏の御前での修行がある。
往生したらそれで終わるのではない。
ゆえに念仏は小法華であり、法華が小念仏とは言わないのです。
念物は初門であり法華経は奥義。
だが門に入らねば屋敷の奥にはいけない。
その門のなかで、機根を選ばず最も入りやすい門こそが念仏なのだと思うのです。