天台には「浄土教」と「法華経」は同じ真理を説くと考えています。
ゆえに法華経を大念仏 浄土教に当たる阿弥陀経を小法華という。
また俗に朝題目(法華) 夕念仏(阿弥陀経)といい、朝には法華懺法、夕べには例時作法というかたちで勤行をします。
阿弥陀経には「不可思議」という言葉がある。
「思議すべからざるもの」という意味で如来の功徳を讃嘆する。
如来の功徳はいうなれば仏性の働きである。
法華でいうならば「妙」の一字となる。
「言辞の相、寂滅せり。」とも「乃し仏と仏のみ究尽したまえり。」というのが「妙」
ではそれは具体的には何を指すのか?
我々の命のことです。
広げていえば一切衆生の命である。
もっと言えば我々の存在そのもの。あなたそのものであり、かつ私そのものでしょう。
大宇宙のいかなる不思議もこれ以上の不可思議はない。
この「生きている!」ということについて古今の賢聖は様々に物申してきました。
「われ思うゆえにわれあり」という有名な言葉もある。
だが仏教でいうならそれは到底思議の及ばぬもの。
大日経には「如実知自心」という。
いかんが菩提とは 謂わく實のごとく自心を知る
悟ることとはわれを知り、わが心を知る。
ではわが心を知ることとは何か?
密教では真如へのアプローチは「不可得」という。
つまり「不可得という理解」こそが真如を体得する道なのだ。
これは阿弥陀経の「不可思議」と一如だ。法華には「妙」という。
頭脳的な知的理解ではない。言葉の概念を駆使しきれない世界だ。
だがこれはいわゆるただの「わからない」ではない。
「わからない」ということがどういうことかがわかること。
そこがわかる、わからないは仏教がわかるか否かと同じであると思います。