金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

命は「不可思議」そのもの

天台には「浄土教」と「法華経」は同じ真理を説くと考えています。

ゆえに法華経を大念仏 浄土教に当たる阿弥陀経を小法華という。

また俗に朝題目(法華) 夕念仏(阿弥陀経)といい、朝には法華懺法、夕べには例時作法というかたちで勤行をします。

阿弥陀経には「不可思議」という言葉がある。

「思議すべからざるもの」という意味で如来の功徳を讃嘆する。

如来の功徳はいうなれば仏性の働きである。

法華でいうならば「妙」の一字となる。

「言辞の相、寂滅せり。」とも「乃し仏と仏のみ究尽したまえり。」というのが「妙」

 

ではそれは具体的には何を指すのか?

我々の命のことです。

広げていえば一切衆生の命である。

もっと言えば我々の存在そのもの。あなたそのものであり、かつ私そのものでしょう。

大宇宙のいかなる不思議もこれ以上の不可思議はない。

この「生きている!」ということについて古今の賢聖は様々に物申してきました。

「われ思うゆえにわれあり」という有名な言葉もある。

だが仏教でいうならそれは到底思議の及ばぬもの。

 

大日経には「如実知自心」という。

 いかんが菩提とは 謂わく實のごとく自心を知る

悟ることとはわれを知り、わが心を知る。

 

ではわが心を知ることとは何か?

密教では真如へのアプローチは「不可得」という。

つまり「不可得という理解」こそが真如を体得する道なのだ。

これは阿弥陀経の「不可思議」と一如だ。法華には「妙」という。

頭脳的な知的理解ではない。言葉の概念を駆使しきれない世界だ。

 

だがこれはいわゆるただの「わからない」ではない。

「わからない」ということがどういうことかがわかること。

そこがわかる、わからないは仏教がわかるか否かと同じであると思います。