これはあくまで「霊狐」という私の妄想の範囲の話と思われたい。
私「極楽に無数のレベルがあるというがどういうことでしょうか?」
梓「極楽は心土であり、実土でないならそうなろう。人の心は千差万別だ。九品の往生とはそういう意味だ、」
私「では浄土のほかの衆生も自己の心作だということですか?」
梓「そこは少し違うな。極楽というのは「正乗聚」というからにはレベルの同じものは相よって同じ浄土を作ることになる。だが心の作る世界だということは変わらない。」
私「極楽には阿弥陀仏の作った鳥が鳴いているというが動物などはいないのですか。」
梓「心土なれば畜生の境涯に属する存在はいないが同じ境涯の存在などはいる、動物からなった天部もいる。」
私「梓霊狐は天部なのか?」
・・・梓霊狐は笑って答えない
私「極楽にいったことがあるのですか?」
梓「極楽は不退転地というだろう。本当にいっていたらここにはいない。私は往生のことを少し知っているだけだ。地上の人間が死してそこへ向かうさまを外から知っているに過ぎない。
阿弥陀経に極楽の風景があるだろう。玉を敷いた道に黄金のいらかの建物。
土地はすべて平らかで、池には車輪のような蓮が光を放っているとかあるだろう。
お前は極楽をあのようなところと思うか?
いずれも実有ではない。
皆心のつくるとところだ。極楽のオウムやインコや様々な霊鳥を阿弥陀仏の作るところというが、それは自らが作るところと同じ意味だ。
阿弥陀経のできた当時の理想の風景に過ぎないのだ。極楽に定まりしうかたちはない。」
私「阿弥陀仏は実に極楽におわしますのか?」
梓「バカを言うな。阿弥陀仏のいますところをもって極楽という。
大無量寿経に阿弥陀仏をして大慈悲心これなりというではないか。
仏陀の慈悲の極みが極楽往生だ。無数の極楽に皆、各々阿弥陀仏はおわす。だが実にはそこにあるにあらずだ。」
私「如来の慈悲はどの如来の慈悲ですか?」
梓「どの如来もこの如来もない。如来の体はみな同じ。多にして一 一にして多だ。
往生する時をば教主を阿弥陀と言い浄土を極楽浄土となずけ、修行成りて出化するがために出でる時にいたれば教主は久遠の釈迦、これを霊山浄土というのみ。『時に我及衆僧 倶に霊鷲山をいずる』と寿量品に有ろうが。
極楽の卒業レベルが霊山浄土だ。上品蓮台のレベルだな。」