飯縄山へは6時に出発。
早朝に十一面さまの祈祷で登壇。
正念誦に入り阿弥陀の真言を唱えていると
風狐さんが語り掛ける
「お前は観音を信仰しているのだろう。
だが阿弥陀はどうだ。
極楽をどう思う?」
実はこの辺は私は方便の説と思っている。・・・方便は方便で必要だが、天台で言う「己心浄土」の教えもあり、少なくとも実際の「場所としての極楽」などないと考えていた。しかもこの辺はあまり興味を持っていない部分であった。
「それは聞くところでは心土つまりは心の境涯かと・・・」
風狐
「観音ありせば阿弥陀もある。この世の阿弥陀の姿をば観音と言う。
観音を信じるものはまた阿弥陀を信じるものでなくてはつじつまが合わない。
阿弥陀ましませば浄土もまします。阿弥陀のましますところが浄土だ。
己心の浄土とはいえ、それは己れただ一人の心ではない。
欣求浄土の境涯。道を求めるもの皆の境涯だ。
その欣求浄土の想いとはただ楽園を求める心ではない。
それではこの世の望みを拡大しただけのこと。
この世の望みを捨てて向かう世界。ゆえに厭離穢土と対なるもの」
「では祈願の道とはかみ合わぬと?」
風狐「祈願も畢竟 厭離穢土
叶うも叶わぬもあり。だが人の命に限りあり。
いずれにしてもこの世に望み尽き果てて人は菩提に向かう。
ゆえに初めから一向にこの世の欲を打ち捨てて浄土を願う者。
それは難行。
この世の欲の果てに浄土を見出すは易行。
この祈願の道にてはさよう心得るべし。」
私
「私は念仏でなく真言なら普段、口にしますが・・・」
風狐
「同じことではないか。真言にてよい。違いはない。
天竺にそもそも南無阿弥陀仏の漢音などないではないか。
観音あらば阿弥陀もあるぞ。阿弥陀仏おわさば極楽もあると知れ。」