お施餓鬼は宗派を問わずしていますが、どういうわけか特徴あるお戒名の方のご回向が圧倒的に多い。
それは弥陀一仏に帰依するご宗派の方々です。
そのご宗旨ではもう我々は弥陀の浄土に救い取られているという。
何故なら法蔵比丘が大無量寿経にいう四十八の誓願を果たして現に阿弥陀如来になって極楽教主にまします。
故にもう誓願は果たされているという。一切衆生は決定往生しているという。
だから本来は故人の年期法要も追福作善もいらないというご宗旨です。
だから念仏を申すのもこれから往生するためではない。すでになれる往生に対する喜びや報恩謝徳の心からおのずと出るべきものと言うのです。
ゆえにこのご宗旨には施餓鬼などもない。
このご宗旨の教えには誰一人餓鬼道に落ちるものもなければ、地獄に行くものはないのです。(私は全くそういうふうには思わないけど・・・)
しかし仏教の教学上の論議はさておき、それではこころの上で割り切れないものがあるのでしょうね。
故人を思う心は理屈ではない。
教学でわりきれるものでもない。
故人をしのびたい。追善回向が切に欲しいと思うのは実は我々の側かもしれません。
地蔵信仰は弥陀信仰以前に盛んであったが、鎌倉時代に阿弥陀一仏の信仰に押されてだんだん衰微していったという。
しまいには「地獄をさまよう地蔵など信仰すると地獄に行くことになる」などと言う悪口まで言われたそうです。
鎌倉中期に無住道暁と言うご僧侶が「沙石集」を著して、これにはにわかに勃興した浄土宗や真宗の阿弥陀仏の信仰がさかんいなるにつれ、その陰で衰微する地蔵菩薩の信仰を宣揚する意味もあったといいます。
無住道暁は臨済僧ですが諸宗の教学に通じて通仏教の立場からかたよりなく150もの仏教説話を集めています。
実に興味深い話が多く、是非一読をお勧めしたいですね。
また、地蔵菩薩霊験記には「地蔵弥陀同一体 遍照十方利益衆生」の言葉があり、地蔵尊も阿弥陀と一体の存在であると強調されます。
阿弥陀仏の眷属25菩薩の内の「無辺身菩薩」は地蔵菩薩の別名です。
ですから阿弥陀様と地蔵さまが無縁であるわけはないのです。
念仏の機に漏れても、なお阿弥陀さんは地蔵尊に変化して六道の衆生を普く導かれる。
地蔵の信者からはそう考えられてきた。
私の地蔵信仰のもとも実はここにある。
まして阿弥陀さまの往生極楽のご誓願はお念仏十回をとなえることにありますから、人間はともかく念仏申さぬ身の鳥や動物などは地蔵尊でなくては救いえないと思います。
もちろん、
阿弥陀様への帰依はいうまでもなく素晴らしいことです。
お施餓鬼の最期には私もお念仏も申しますが、やはり施餓鬼のこころにふさわしいのは六道にわたって跋渉し救いを垂れる地蔵尊だと思います。
南無六道能化大慈大悲地蔵大菩薩
お地蔵さまに関する拙著です。