スピリチュアリズムの人の考えはまちまちなので無条件に受け入れたら仏教のかたちはなくなる。その考えも人によりバラバラだ。
だからそういうのを振りかざす人は遠ざけている。
それを仏寺にきて霊とは、神とは、仏ととうとうと演説されては困る。
よそでやっていただきたい。
個人レベルで話くらいは聞くが・・・
そもそも根拠がない。
そういうスピリチュアリズムの霊的に偉い人がこう言っている!というだけのことであり、それを突き詰めれば実質「霊能者信仰」に他ならない。
自分の考えでもなければ何でもない人が多い。
ただ好むところによって選択しているようだ。
海外の方も多く、スピリチュアリズムと言ってもかなりキリスト教ナイズされているものをそのまま仏教に持ってこようとしても無理だ。
「同じだ」というのは仏教について無知だからだろうとしか言えない。
寺庭婦人から僧侶までもそういう無知な人はいる。
だが、勿論、そのすべてが悪いわけでもなければそういう角度からの見方もあるだろう。
私的にスピリチュアリズムに照らして考えれば「仏」とは巨大な「集合無意識」といえよう。
ほとけを信仰することはそこにアクセスすることだ。
アクセスできないならいかに経を読み、お参りしても形だけだ。
例えば法然上人は念仏信仰にも深心、回向心、発願心が大事とおしゃった。
その集合無意識にもいろいろ種類はあるが皆つながってはいる。
ほとけはみなつながっているのだ。バラバラなら仏教は成り立たない。
それを教えているのが諸尊諸仏の並ぶ「曼荼羅」図だ。
阿弥陀という習合無意識にアクセスを続け、肉体は崩壊すれば意識はそこに帰入する。
そのレベルは人により色々なので「九品の往生」というのがあるのだろう。
観音でも地蔵でも同じ構造だと思う。
うまく帰入すればそのまま阿弥陀の習合無意識の中に溶け込み、業業流転の輪廻はやむ。極楽往生だ。
阿弥陀の浄土の有り難いのはアビバッチと言って不退転、元に戻らない性格がある。
つまりもう輪廻しない。
ただ誓願によりあえて輪廻転生してくるものはいるという。それは「願生」という。
それが菩薩だろう。