世の中は矛盾に満ちています。
例えば「慈悲に満ちた生き方」をしたくても生きることは殺すことだと私は思っています。
65億にもなった人類はほかの生き物の住処も食料も生命も奪いながら生きている。
動物同士も殺し合って生きている。
おとなしく平和に見える海のクジラは一時に何千・何万もの生き物を飲んでしまう。その微生物同士もまた熾烈な生存競争を繰り返す。
聖書にあるようなライオンとヒツジが戯れあえる世界はどこにも存在しえない。
人間だけでなくあらゆる生き物はそうしなければ生きていけない。
キリスト教ではすべての生き物は人間のためにあるという。
そこでは理屈の上では矛盾は無くなる。人間のよき様に使える。
いくら殺しても罪にはならない。
でもそういう国から盛んに動物愛護や自然環境へのメッセージも発せられています。
人間のためにすべてはあるといううこのテーゼもそのままではない。
キリスト教を捨てはしなくても矛盾は残るからでしょう。
そこでは時代とともにキリスト教でいう人間に託された自然の解釈も変わっているはずですね。
しかし、矛盾自体は残る。
これはただの一例です。ほかにも多々ある。
人間は納得したい生き物です。好奇心とは言い換えれば納得の追求でしょう。
矛盾を放置しておけない。それが人間の性格。
しかし世界はどこまでも矛盾に満ちている。
東日本大震災の慰問に訪れたシスターは「こんな災害を起こして、神様がそこにいたなら私はぶん殴ってやりたい!」と言った被災者の言葉を聞いて「そうですね。私も神様そこに居たらぶんなぐります」と言って深い共感を得たという。
慰問や共感という点ではそれでいいだろう。
だが宗教としてはどうなのだろうか?
これに対しダライラマは「すべてはカルマだ」という仏教本来の「業論」を展開して一部から「我々が悪いと言いたいのか!」と批判を浴びた。
ネオスピリチュアルではこれは高い霊的レベルに人間が移行するのに必要なできごとだったとさえも言う。
どれも違うが実のところは納得を求めることに対する答えだ。
だが納得してもしなくてもこの世界は世界だ。
世界の側は我々の納得など必要としない。
矛盾はそこにあるだろう。どこまでも。
だがそれはあくまで人間から見た矛盾だ。
私は矛盾は矛盾としてそのまま生きていく。黙って生きていく。
納得できなくても。
それも大事だと思う。
法華経の寿量品に「たとえ衆生、劫尽きて大火に焼かるとも、我がこの土は安穏にして天人は充満し、園林諸々の堂閣は種々に荘厳せり」とあるのはそのこころだと思う。