別に反対する理由は全くないが・・・素朴な疑問としてそういう命令ってできるんだろうか。
できるとして違反しているか否かは見た目お祝い以外はわからないよね。
アニマルコミュニケーションの指導者ローレンマッコール先生によると犬や猫は人より短いサイクルで輪廻転生するそうです。稀に転生して人間になる子もいる。
とはいえ失った家に同じ子が来ることは滅多ないといいます。かわいがっていた犬や猫が亡くなるともう二度と飼わない!などと言いますが、多くの場合、そんなこといわないでまた新しい子と楽しく過ごしてほしいと願っている子が多いらしい。
彼らは人間より淡々と死んでいく。
うちの猫「ラン丸」が持っていた病が発動して亡くなるとき、獣医さんから借りた酸素室で過ごして最後を迎えた。母はラン丸の様子を見て何を思ったか、こんな風に死ねるなら死ぬのもいいかな・・・といっていた。
日なたでくつろぐ在りし日の初代フクとラン丸
福猫や色々お祀りされている方からの質問。
一日は全部の神様にお供物あげているけど、たくさん神様いるので毎日あげてるのは福猫さんだけですが、それだといけませんか?という質問。
福猫ちゃんは愛らしく親しみやすいので話しかけたり、ついつい皆さんお菓子や果物なんかを折に触れてあげてるみたい。
別にいいのではないでしょうか。
ただ個別にあげなくても全部にあげえるつもりで真ん中にお供えすればもっとスッキリするかも。
こういうのは自分で決めたらそれを続けるのが大事。
いちいち迷ってあげたりさげたりはそのまま心の迷いを作るだけで無益です。
うちも外回りの地蔵さまや馬頭様、お諏訪さまは、お供物つまりお赤飯やお水は聖天供七日の間だけあげてます。
普段はそうきめている。
お供物をあげるのは心をあげること。
ルールは自分で決めたらいい。自分の信仰ですから。
支援児童虐待。これはひどい犯罪です。
名前がでないということは個人的この腐れ外道は全く詫びていないのだ。
絶対に名前を明かして起訴すべきだ。
児童の親も慰謝料を請求して訴訟にしたらいい。
現代は動物虐待でさえシッカリ懲役が付くのだ。
牢にぶち込め。どうせろくなものではあるまい。
こいつこそ野放しにしないで日の当たるところから消してしまえ。
監獄でしばらく頭冷すがいい。
令和3年秋季彼岸会は本日結願いたしました。
なお明日は彼岸中日のため施餓鬼供養にて総じてご供養させていただきます。
また、自宅でのご供養は彼岸明けまで続けられて構いません。
宝篋印陀羅尼法は特に亡くなられた方のご供養には功徳があると伝えられております。
当方では春と秋のお彼岸にはこの法でご供養いたしております。
さて宝篋印法塔の御影を礼拝してつよく感じたのは、完成された父性でした。
慈父悲母といいます。
完成された父は大慈で、分け隔てない与楽の徳をあらわします。
同じく完成された母は大悲で、分け隔てなく全ての苦しみを抜き取ります。
(もちろん父母共に慈悲の両方の徳を具えているのですがどちらを表面に出すかということです)
私たちの人格形成には父と母の両方の影響が大きいです。
さらに霊的成長にも聖なる父と母が必要になります。
鎌倉時代の高僧、明恵上人は釈迦如来を父、仏眼仏母を母と仰いだと言われています。
豪潮律師は仏母准胝観音を念持仏とし、後年は宝篋印塔の建立に心血をそそぎました。
ちなみに年末に行う光明真言法でのご供養は大悲胎蔵曼荼羅の大日如来を本尊にするので、完成された母性を本尊とすると言い換えても良いでしょう。
お彼岸はご先祖をはじめ、なき方々をご供養することで、自分自身の霊的成長も促していく修行週間なのです。
「毘沙門天八方祈願」のお申し込みをされた方を調べたら去年も申し込んでいるかたが多いんですね。
これだけ頼んできたり、後、星祭のみ福猫だけとかが多い。
ある方が去年、息子さんの出世を祈願したら三人ともとてもいい結果になって今年は是非、息子の良縁でという方もいた。
変な言い方だが片っ端から頼んでいるわけではなく、ちゃんと「毘沙門信仰」があるということですね。
これは感心します。
何でも頼んでくる方が多ければお寺としてはもちろん経済的にはありがたいのですが、毘沙門さんだけとか、八大竜王様だけとかというのはこれはこれで気持ちいい。
ああ、ちゃんとこの方は毘沙門天様を信仰されているのだとわかるもの。
行者としてうれしい気持ちです。
ただのお付き合いややらないとダメという不安感からあれもこれもうれしくない。
神様も喜ばない。
難病の猫の治療費のために長年愛した車をオークションで手放す飼い主。
事情をくんで車を落札。なんと猫の快気祝いにピカピカに修理して返してきた落札者。
人の情けが身に染みるお話です。
泣けるにゃあ。世の中捨てたもんじゃない。
それにしても動物の治療もお金かかるね。