ある講員様から最近色々あってもう草臥れてしまい、お経もお勤めもしたくない・・・これってだめですか?といわれた。
勿論、病気や多忙、旅行中でできないこともあるでしょう。
でもしたくないというのはどうでしょうか・・・・
私は「したくないなら、しないでもいいのでは」と答えました。
逆に聞きますが「しないとダメ」って・・・いったい、何がダメなんでしょう。
そもそも、ダメの意味が解らない。
私が若い頃、伊矢野師に伴われた出先で「信仰したいけどどうしてもする気になれない。神仏が信じられない。こういう人間はどうしたらいい?」という質問があった。
私の答えは「別にできないものはしなきゃいいのでは」だった。
この考えは今も変わらない。
罰など当たりません。コンタクト取るためするのがお勤めですから。
コンタクト取りたくないというならとらなゃきゃいい。
その人の勝手です。
よくどのくらい読めばと言いますがそれも自由です。
礼拝要典を全巻読むもいいし、略作法でも、心経一巻、真言一遍でもつながればそれでいいと思う。
どのくらいでそう感じるかです。
行としてするならそうはいかない、真言千遍読むなら千遍、21日なら21日
どんなことがあっても変えられない。妥協はない。
私の師匠の師匠は留守で出かける時にお米を祈っておいた。
病人や困った人が来たらこれを持たせろという。
師匠がそれを寺に来る人に上がたら、やはりばっちり結果が出る。
拝めない時でも出る。
でもだからと言って寺にいるのに拝まなければそれはダメでしょう。
臨機応変というものでしょう。
なにも本尊がお経読まないと困るわけじゃない。
自分のためのお勤めになっていないならいずれにしてもやっていないのと変わらないです。