最近はなぜか黙々と祈る人が多い。
私の師匠は声に出さぬ祈りは届かないと言われて修行しました。
観世音は世の音つまり人々の声にを感応する仏だと教えられた。
だから私はいつでも大声を出して大福生寺で勤行しました。
師匠も私の声を聴いていて「今日の御参りはあれはなんだ?全然だめだな」とかいってくれた。
ほめるというのは昔の修行でほとんどないんです。絶無。
師匠がだまって聞いておれば合格ということなんだね。
逆に「ああ、いいですねえ」などとていねいにいわれるようではもう完全にお見かぎり。
もはや聞くに値しないということである。
聲に出さないものは覚えない。大声であげてる頃は心経、観音経全文、十一面経、大聖歓喜天使呪法経などは全部そらで上げられた。
うちで声出さない人が多いので聞いたら、有名な某聖天様では御参りは声出すなと書いてあるという。
なるほどね。そちらさまはそちらさまでそういう事情なんでしょうね。それはそれでいいでしょ。
でもうちはうちですからそんなことは関係ないんです。よそはよそ。
うちはそのお寺様みたいな有名なお寺じゃないし、一般の御参りもない無名の寺です。拝んでいる人は大概一人か身内しかいない。自ずから事情は違うでしょう。
でもあえていわせてもらえば・・・
そもそも私の知る庶民信仰の霊場というのは錫杖は鳴るわ。御詠歌は聞こえるわ。
隣では何やら大声で真言あげている。思い思いにそうしていて気にならない。気にならぬどころか他人お祈りに共鳴する世界。それがあるべき霊場の姿。
台湾の龍山寺はいつもそんな感じ。思い思いに祈っていてどうだろうともそんなの気にしない。なんとも思わないどころかお参りもそういう他人お祈りがなきゃ寂しいくらいなのだ。
私に言わせれば、他人の声がするだけでそれが邪魔で拝めなくなるようなものはどうせ大した気合を込めて祈っていない証拠だという暴言をあえて吐かせてもらいます。
そういうと怒る方もあるだろうけど、どんなに怒っても絶対に私は考え改めませんから怒る人は勝手に怒ってくださいね。
ガサツな私はそういうデリカシーの持ち合わせはないので相済みませんね。
私に言わせればそういうのは除夜の鐘がうるさいというのと大差ないのでは。
何故ならそういう人でも住職や役僧がお経をあげてる時にその声を邪魔だとは思わないはずだからだ。「あ、今護摩焚いている。祈りの声がうるさくてイヤだからあとでまた
来よう」などという人間はよほど頭がおかしくないかぎりいないと思いますね。
むしろ「ああ、ありがたい。いい機会に巡り合った。」と手を合わすのが普通なのだ。
でも他人の拝むお経は嫌だという差別の心。
そんな心で神仏に届くもんか。
「じゃあ、先生は自分が祈祷している時その後で声出してお参りしていてもいいんですか?いやでしょう?」と反論する人もいる。
こいつ、何を言いやがる。いいに決まっているだろうが!
そういうのは行者としての励みなのだと私は教育されて育ったのが私だ。
だから私はお勤め中に後ろで何やらこそこそ拝んでいるとかえって腹が立つ。「聲をだして拝みなさい」というと蚊の鳴くような声を出す。
「もっと出さんか!聞こえないぞ!」と言って初めてやっとこさ普通に拝む。
こまったもんだ。
今にして思えばは観音様じゃなくても皆同じ。聲に出すのが大切な一番の理由は「今、これこれで祈ってます。」という自分への宣言・アファメーションなのだ。
モヤモヤと言葉にもならないかたちで拝んでいたってまず自分にすら響かないだろうに。
そんなものは神仏にはもっと届きません。