以前拝んでいいお地蔵さん悪いお地蔵の話をしました。
結論的には拝んでダメという地蔵様はない。
ただ、祈願のためなのか回向のためなのかはそこははっきり分かれます。
例えば交通事故が起きやすいところにあるお地蔵様は拝むことで威力を発揮して交通事故から我々をお守りくださいます。
もろもろの事故死した方々の霊もお地蔵様により解脱します。
それを拝んでいけないなどと言えばお地蔵様の救済力が狭められます。地蔵尊であっても誰も拝まないならもともと石の塊に過ぎないからです。
拝んでこその仏、仏の力を引き出すのが拝むということです。
法華経にあらゆる出会う人々を礼拝した「常不軽菩薩」のはなしがあります。
菩薩は人々の中にある仏性を拝んで修行しました。尊いことです。
そうして人の仏性を引き出したのです。
宮澤賢治は痛く法華経の説くこの話に影響を受けたそうです。
処々が地蔵様に手を合わすのも同じことです。
ですが偶々、古美術で手に入れた地蔵様が台座に為○○菩提などと書いてあればそれは特定の故人の冥福を祈ったお地蔵様ですからお家でお祀りするにはふさわしくないと言えましょう。
拝んでいけないことはないけど、それはその方の冥福を祈るという意味になります。
地蔵菩薩本願経には他人のための祈りでも、祈りの功徳は七割は自分に残るのだと言いますが・・・。
ですからそのへんの目利きがないならお地蔵様を祀るなら新しい像が良いと言えましょう。
新しく仏像をつくるには誓願が先にあるはずです。
たとえば先祖の菩提とか、身体の健康とかです。
結婚祈願のように何か目的が達せらえれば済むものに仏像を祀るのは過ぎたことです。
お仏像は一生お祀りしていくものですから。