仏教美術のすばらしさにとらわれるとこれも煩悩になります。
良い仏像をみると今まで拝んできたものが粗末にさえ見えたりする。
でも拝んできた仏像には薫習があります。
むかしの仏教説話にこんな話があります。
地蔵信仰をしていた僧侶が、地蔵尊の素朴な尊像を信仰していたが念願晴れて立派な尊像を入手したそうです。
前の仏像は横にかたずけてしまった。
そうしたらその地蔵尊が夢に出てきて泣いているのを見た。
それでそのお坊さんは前の尊像と新しい尊像を並べて拝むようになったと言います。
同じお地蔵様なのに…と思う方もおありでしょう。
でも同じ地蔵様でも縁が変わればそこに個性も現れます。
そこには開眼した人の心や作った方の心も地蔵尊として現れます。
そういう尊像の別を超えて真実の仏は虚空に追わす存在でかたちはないものでしょう。
お姿も我々に理解させるためのものでしかありません。
そこに余りこだわるならそれもまた煩悩です。