以前フェイスブックで仏像の良し悪しの話をしたら「どんな仏像だって尊いでしょう」と言った人がいた。
仏縁のよすがとしてはそうかもしれないが、仏像の作りそのもの良し悪しを言う前提でこれを言うのは場違いな人だ。
江戸時代のように精進潔斎して仏法を学び信仰を研鑽する法橋 法眼 法印と言った位を許された方々がつくるのと上海あたりでコンピュータ機械彫りのものとはやはり値打ちが違う。信仰としての違いは別だ。
例えばお菓子の包み紙に印刷された仏様の絵を捨てるのは勿体ないと拝んでいたおばあさんの家に霊能ある行者が来て「ここには尊い仏がある。それじゃ」と言って仏壇に置いて祀った包み紙を指刺したという話もある。
祈り次第ではそういうこともあれば、国宝級でも(だから?)拝んでいないスカの仏像も多い。
ただしこれはあくまで信仰というレベルの話だ。
そういうレベルとは別にその尊像を拝んでありがたく感じるか否かということはとても大事だと思う。
さて難しいのは大黒天の選び方だ。
良い仏像とは自分が仏とつながれる仏像だ。
ただそこには敬意も怖れも必要だ。
だから私的に言えばかわいらしいサンタクロースみたいのはダメ。
最近はおおむねこれだ。オートメーションの大黒様。
少なくともメインで信仰したいならあまり勧めない。
拝んでいてズブズブ、家電量販店や百貨店の愛想笑いと同じ。
つながりやすいが何も届かない。
もっともそういう方が好きという方もいる。ご自由にどうぞ。
その方の勝手です。
私の師匠は仏像の開眼頼むと「これは悪いけど開眼できない」と言って断ることもあった。
理由は「拝む気がしない」から。
酷いと思うかもしれないが仏を迎えるにふさわしくないようなものは拝めない。
そこにあるのは長らく仏を拝んできたものだから言える仏への畏敬の思いだ。
それは私も同じように思う。
お不動様でも酒飲みのおやじが怒鳴っているようなものも多いが駄目だ。
忿怒とは自分がおもしろくないので怒鳴るレベルではない。
仏の怒りとは実相に違背するものへの厳しい目だ。無明煩悩の心への怒りだ。
だから明王なら心の奥まで見透かされるような目の仏がいい。
たちむかうだけで煩悩の雲も晴れるような。
大黒様は笑っているだけに強烈だ。悪くすればあざ笑われている。せせら笑っているくらいにみえるのがいい。
そういうのは逆に良い時は本当に咲う。
「笑う」ではなく「咲う」だ。花の咲いたように咲うのだ。
そういう大黒天は難物だが本当にお働きくださる。