金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

仏像をまつるという意味

先の古仏開眼の記事で質問がありました

 

「さて、
本日の記事では毘沙門天を祀らない方がよいとのことでした。

実は仏像彫刻をしてまして、
観音様ばかり彫っていましたが、
ある時、ある木の中に毘沙門天がいそうだと思って、
急に毘沙門天を彫りたくなり、
彫りあげまして、その後
ろうそくをあげたり
マントラをあげたりしています。
なにか障りがありますでしょうか。

ちょうど毘沙門天を彫り始めたころから、生駒山が近くなんで湛海大和尚さまが仏師だったとのことで、
年に一度程度ですがお参りするようになりました。
聖天さまもお参りしています。
年に一度なんで、信仰心があると言いにくいところ、恐縮です。

大阪なので、今回はお伺いすることができませんが、いつかご挨拶させていただきたく存じます。」

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この方は仏像彫刻をされているとのこと。前の前の記事でも言いましたが仏像彫刻は本来は仏道修行です。

この方は信仰心があるとは言いにくいと言いながら彫り上げた仏像に蠟燭、マントラを上げると言います。それはやはり仏道修行に同じきものがあります。

 

ただし、このスタイルは僧侶がお開眼しているわけではないので私の言う天部をまつる云々とは少し違います。それに該当しません。

いわばこれは芸術と同じく一種の自己表現であり、ご自分の分身としての観音様。毘沙門さまと言った方がいいと思います。

形は仏ですがそれは自分の中に見出した仏ということだと思います。

仏画にせよ仏像にせよ、ご自分が作ったものにおびえる必要はないと思います。

わたしがいう「まつる」というのはそうしたかたちとして仏像を置くのではなく、あくまで僧侶を頼み目的を持って「開眼した仏像」のことです。

これは自分が作っても開眼すればそうなります。

要するにそこに降臨することを乞うのです。

こうした形で開眼した場合は天部は護法神ですので仏法のおこわれないところにはいたがりません。