きのうに続いて開眼のお話。
人形供養というものがありますね。
あれも魂抜いてお焚き上げする。
長年親しんだものには魂が入ると考えれば仏像も開眼せずに拝んでいても魂入る?
勿論入るでしょう。
でもそれはあくまでその方の念が入る。
こんな話がある。ある弘法大師の信仰深い四国のおばあさんがいました。
彼女はせんべいの箱にかかっていた熨斗紙にお大師様がかいてあったので、もったいなくて捨てられないで、仏檀に入れて拝んで居た。
そうしたらある日、霊能のあるお遍路さんが托鉢にきて「ここの家には大師がいらっしゃる!」という。
どこに?と家人が問うと、家に上がり、「ここにいる!」と言って指さしたのがその熨斗紙だったという。
このような話を聞くと拝んで入れば、開眼などしないでも自然と仏像にも魂は入ると思う人もいるでしょうね。
それは入るは入るけど…このおばあさんの場合はおばあさんの信仰の心が入ったんだと思う。
旅の霊能者はそこに感応した。お大師さんを感じたんでしょう。
だけどそれはそのおばあさんがとても信仰が強かったので霊能者はそこに感応してお大師さんの仏像と同じように感じたのだと思う。
霊能者が拾うものは人によって様々です。
画家がお同じ画題でも書きようがいろいろ変わるのと同じ。中には抽象的にみる人もいる。だから絶対的でも普遍的でもない。霊能者によって見方や判定が違って当たり前です。
霊能者に親しむにはそれを知っておかないといけない。
要するにおせんべいの熨斗紙はお人形さんのお魂と同じ理屈で薫習というものです。
香で炊きこめれば香りがつくのと同じ。
おばあさんの信仰の薫習です。
開眼は違うものです、こちらの思いだけは無く、仏の降臨を願って儀軌による約束事により仏が降臨する。
「開眼なんかしなくても拝んで入れば魂はいるさ!」という考えは私は違うと思っています。
だからよく亡くなった方の持ち物をお焚き上げするが、故人が好きで拝んだだけのものはお焚き上げでもその人の信仰がしのばれるが・・・ やさしく軽く感じる。
でもちゃんと開眼したものは軽々に焼けない重さがある。