甲子日です。
かねてより、ある大黒天像の開眼を頼まれていて拝みおわりました。
小ぶりで実に立派な尊像です。
法楽に大黒天秘密祭文を挙げておこうと思ったら、どうもそのような大黒さまではないようだ。
この祭文は福徳成就のもの。
だがこの尊像はそういうのではなく何かを学び追及する尊像のようです。
きけばある芸道の達者の信仰していたものとか・・・
古仏については霊狐さんからは「仏像一体一体に経緯があり、来しかたがある。
同じ仏の像でも一体一体みなお働きは違うぞ。」と聞かされている。
つまり個性があるのだろう。
人は時にいろいろな尊像をもってきて自分の願いをかなえようとしますが、必ずしもそうはいかない。
古仏などはどうしても薫習によりその尊像が作られた経緯によって同じ筋道を行くものを引き寄せる。
自分が自分の思惑で求めてくるのだが実はそうとはかぎらない。
そこに必ず本尊の心が働く。
持ち主が引き寄せられることも多いものです。
この尊像もそうかもしれません。
稀にそうではなく欲から分不相応のものを求めてくる人もいるがうまくなど行かない。
いつも言うように仏像があるからと言って仏を家に留め置けるわけではないのです。
御利益ある仏像をまつり、山海の美味を献じたところでほとけの感心は買えない。
そんなことで感心を示すような者は仏ではないでしょう。
仏は常に心を同じくしようとする者とともにまします。