金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ひどい仏像


拙寺には新しい仏様より古仏のほうが多い。
古仏といっても・・・まあ、大体江戸時代くらいのものですが、もちろん新しい仏像のほうが新しく開眼するにはいいのですが・・・それでも古い仏像を祀るには理由があります。
もちろん私がコツコツ集めたのでそんなに専門家が感心するようなすごいものはないけど、一つには修復して再び拝むことが大きな功徳であると思うこと。
昔はすべてオリジナルです。まずそこに祈りがあって作られたお仏像なんです。
中国で大量生産して並べて売っている現代とは違う。
有難味がある。

今一つは現代のものに比べ作風が良いことです。
というより今のものはひどいのが多い。
まず第一に作っている人間が全然仏像を研究していない。いい加減極まる作り。儀軌もへったくれもない。

だから作ってもらうととたいていあちこちとやり直し。
私が頼んで作る場合は、たいがいがどこにも出来合いはないような仏尊の場合だから余計そうなることが多い。

それと顔が悪い。特にひどいのは明王愛染明王なんかは貴人の怒れる相に作るのが本義。基本的には上品なお顔にしなきゃいけないのに酒飲みの親父が顔を赤くして怒鳴ってるようなの多いですね。
とりわけ、明王や天のような密教尊は難しいのです。極端な話、煩悩の貪瞋痴の奥に悟りの光の見える尊像でないといけない。
それがまるきり逆、悟ったような顔の奥に煩悩見え見え。
はたまた寂静尊の場合も嘘っぽい取りすまし顔や観音菩薩なんか飲み屋のマダムかと思うような色っぽくしな作ったのとか・・・。

それから名人が作ったというけど奇麗にゃ奇麗でも味がないのもある。お人形さんやね。きれいなだけ。仏像は顔が命でしょ。でも、きれいなだけじゃなく有難くないとダメだと思います。

ハッキリ言いますがそういうの素晴らしい!なんて言う人は仏教的な心境も知れたものだと思ってしまいますね。
中にはそういう仏像を「これいいでしょ!」なんて自慢げに見せに持ってくる人がいますが「ああ、・・・いいですね」とは口先で言うものの・・・自分の信者なら「こんなもの開眼できません。」といいたくなるようなものもある。
いくら人間が良い人でもそんな仏像有難く思う人はなんか仏教的には全然駄目だね。善人悪人とかとは違う境涯の話。
仏像への志向はその人の本心が現れるからです。
物欲しい人は物欲しそうな仏像。
色欲煩悩だらけの人は色気いっぱいの仏像。人を恐れて媚びる人はこびへつらい笑いの笑みをたたえた仏像持ってきますね。

金剛経の大家である濱地天松居士。そのお弟子の林天朗居士。この方は芸術家なのですが「観音菩薩を描きたい」といったら、天松居士が「観音は慈悲如大雲。悲躰戒雷震だ。それが二つながら描けないと観音は描けない。どうだ。君、描けるかね?」といわれ、連日苦しんだ挙句断念したといいます。ホントの本物はそういうものだと思います。