仏、菩薩、明王、天というように諸尊は分けられている。
だけど仏は必ず明王より上とか、下とかそういうのは本当はないのが密教です。
少なくとも密教ではそうです。
密教の本尊は曼荼羅です。そこから何尊が出てきてもいい。
こんな話があります。
江戸時代のこと。高野山のある塔頭の和尚が用あって江戸に来ていた。
その留守に信者の総代たちが寄り合いをした。
それはなぜか?
このお寺の本尊は観音様だった。
だけど阿弥陀様もすぐ隣にあった。
生知識のある人が観音は本来は阿弥陀如来の家来で向かって右の眷属、左が勢至菩薩とされるのだと言って、「家来である観音が中心で主人ともいうべき阿弥陀様が横ではおかしい。」と言い出したのだ。
皆はその話を聞いて一同、阿弥陀様を中央の観音様に置き換えるべきか否か?という相談をしていたのである。
そうしたことはまったく知らぬ江戸の和尚だが、その晩に夢に本尊である観世音菩薩があらわれて、このありさまを知らせ
「物の道理を知らぬ人たちが私を阿弥陀様に置き換えようとしている。辞めさせてほしい。」とい告げられた。
そこで和尚は驚き慌てて手紙を高野山に送って、これをとめさせたといいます。
手紙をもらって総代さんたちは大いに驚き、観音様への非礼をわびたそうです。
大事なことは何か。密教は曼荼羅世界だ。
曼荼羅はたくさんの仏様がいます。
有名な胎蔵曼荼羅は中尊大日如来と中台の仏、菩薩九尊を中心に展開している。最外院にはアスラや鬼類などもいる。
でもこれは曼荼羅の一つでしかない。
これだけが曼荼羅ではない。
「別尊曼荼羅」と言って何が中心でもいいのです。
天部が中心の荼吉尼天曼荼羅や聖天曼荼羅のようなものもある。
それは例えば芝居のようなものでいつもいつもベテランの俳優さんが主役とは限らない。後輩やお弟子さんが主役、ベテランや師匠が脇役の舞台だってある。
それが曼荼羅世界だ。
だから密教では観音中心で阿弥陀様が脇でも少しもおかしくないのです。