今日、先日、求めた訶梨帝母像(鬼子母神)を見とめて、是非欲しいという講員様がありました。
まあ、この方はお得度はしていますが。
「誰かもとめに来るからこの仏像を入手せよ」と梓霊狐が言うので購入したので他意はないのですが・・・
例によって「お迎えしたいなら、先に法華経の陀羅尼品を100巻あげてご縁作りして下さい。」と言っておいた。
これも安易な気持ちで仏像を求めるべきではないという考えからです。
今日も思うところあって講員さまではない方ですが、飯縄守りを頼んでこられた方にこちらからお電話して「あなたは以前お受けになったお札をキチンとお祀りされていますか?」とお尋ねをしました。
どうもそうではないらしいからです。
八大様から「ほこりをかぶっておる、いくつもお札はあるがみな同じ有様だぞ。」というお声があるので「まずはちゃんとお掃除してくださないとダメでしょう」と申し上げました。
お参りもしないらしく「ご真言がわからないもんで、ついそのままに・・・・」と言われるので、「わからないならなぜ尋ねようとなさらないのです?」
そう言うと今度は「おそなえは何をあげたらいいのでしょうか?」と聞くので八大様は「何一つあがった覚えはないぞ。何も上げる心さえないのにいまさら何を尋ねるのだ?」とのお言葉でしたので
「上げたいなら水でもご飯でも普通に考えてあげられるでしょう。
貴方には供養の心がないならお守りも無用です。キャンセルにさせていただきます。
お札やお守りを次々求めてきっといいことがあるというのただの気休め、バカげた迷信です。
まず今あるものをしっかり拝んでからでいいでしょう。それで充分です。」と申し上げました。
大変失礼な物言いですがうちは宗教で客商売ではないので、必要とあれば言いにくいことも真正面から歯に衣着せずに申します。遠慮はしません。
それで離れる人などいてもかまいません。そんなのは信仰にならない。
祀るなら祀るだけのことをしないとお札もただの紙切れ、仏像も木や金物やつちくれの作り物にすぎませんので。