金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

牛島大将とゼレンスキー大統領の評価

昔、沖縄にいった折に、太平洋戦争末期の沖縄の戦いで、牛島陸軍大将は最後まで降伏しなかったために多大な犠牲者をみちづれにした極悪人のように書いた戦跡の説明文があったが、そのころは多くの人がそれを読んで憤りなど憶えたふうはなかった。

私はそれを見てこれが果たして同じ戦を戦った同じ同胞に対する言葉かととても腹が立ったが、・・・

なぜなら火炎放射器で民間人を責め立てる当時の米兵はおそらく今のウクライナにおけるロシア兵と変わらない。しかも鬼畜米英と言っていた時代だ。

追い詰められて崖から身を投げる沖縄女性らの動画は有名だ。

降伏すれば助かると本気で思った人たちがいかほど居たのか?降伏したいというおおぜいの人たちを大将が無視して死なせたとは私は思わない。

 

あれから70年以上たって

今はその同じ日本人がウクライナのゼレンスキー大統領の徹底抗戦をまるで英雄のように称える。

 

私はゼレンスキー大統領をたたえるのはダメだと言っているわけじゃない。

私はロシアの撤退をこころから祈っている。

不思議なのは、だったらなぜ牛島大将を英雄といわないまでも、いまもって罪人のように言うのか?

もし、牛島大将に重大な間違いがあるならゼレンスキー氏にも同じようにあるに違いない。

そこが疑問なのだ。

日本人ってそういうところ結局、烏合の衆すぎる。皆がそういえば付和雷同していく。

馬鹿だわ。

私は今回、ウクライナを支持します。同様に牛島大将の名誉も傷つけようと思わない。

彼は立派な軍人であり立派な日本人だと思う。

SNSが発達してますますその傾向だ。多くの人が気にいらなければ袋叩き。

要するに安心して叩ければ共感のほうが大事なのだろう。

「このところは雨続きで嫌ですねえ」 というレベルと大差ない。

共感が心地いいだけ。

頭で考えているわけじゃない。そういう人多くないですか?

衆愚とはまさにそういうものなのではないだろうか。

私もこのブログを共感してほしくて書いているわけではない。

どうであってもいいが、イワシの群れのように潮の流れに乗るだけではなく自分の頭で考えること。是にせよ。非にせよ。それが大事だ。

ja.wikipedia.org

 

 

お茶が沢山届きました

存じ上げない方からお礼状とプレゼントが来ました。聖天信仰をしていて私の本が何か参考になったようです。大いに出世できたと書いてありました。

 

頂いたのは静岡のお茶沢山!

ご住所がなかったのでこの場でお礼申します。                         

お茶大好き!御祈願をしたわけでもなしにご利益の御裾分けにあずかり恐縮至極です。

ますますのご発展を!合掌。

 

金剛般若経 取り寄せました

 

金剛般若経は理趣分の難解さとは対照的で下し読みにすると「そうなんだ‼」とハッとさせられる部分も多いお経です。

無論、般若の難解なことは頭脳的理解の及ぶ枠の外ですが、頭の及ぶところでの気づきもあります。

理趣分はザックリそういうのはほとんどない。

なので解説せよと言われてもわかりやすいお話は無理です。

わかっている人に言うとわかるというようなもん。

わかんないひとにはいってもわからない。そういう世界。

 

でもまあ、お経にも向く向かないがあると言っては恐縮ながら、この前遷化された善光寺大勧進の瀧口大僧正などは、理趣分の代わりに何回か読んでみたけど、ぴんと来んなあ…と言われていた。

ピンとこないというのは「分からない」という意味ではない。

理趣分のような鋭い霊験が感じられないということのようだ。

 

理趣分はお経の中には陀羅尼があるし、密教的作法も完備しているから「祈禱法」としては、ものたりなさはあるかも・・・。

瀧口大僧正は祈祷の達者でしたから。

 

でも初行の方には内容的に非常に大乗理解の一助になるので少しお弟子さんや篤信の方に読んでもらおうと思って和文のものを取り寄せました。

中国では般若心経以上に読まれ、唐代にはその霊験をつづった「金剛経集験記」が知られています。

つまりご利益のあるお経として篤く信仰されてきました。

山岸乾順師の名著「鎮宅霊符神」には金剛経守護の八大金剛の霊符が載っています。

家宅を治める「鎮宅祈祷」に使うもの。それの祈祷作法までは載っていないけど当然「金剛経」の読誦でしょう。

 



霊狐、臨終の一念を語る

臨終の一念は大事だとよく言う。お念仏の信仰などでは特にそういう。

臨終正念。

死が近づく最晩年は人はどんどん欲が薄くなるのが本当だ。

それは良いことだという。

何もかも手放せる人。

そういう人は積み残しがないからいくところへ行く人。

逆にどんどん執着強くなる人は欲が凝っても妄執を残しやすい。

それはどんどん餓鬼が集まっている。波長が合うから。

やがてはその御仲間だ。

妄執を残しても輪廻の旅には出るだろうが、行先はもちろん良くはない。

そして妄執が残留思念となればその影響は死後も続くだろう。

それはそれで欲の悪鬼のようになって残る。

 

霊狐さんに聞いた限りでは殺された人などの念も殺されたことを意識して死ねば怨念となって残りやすい。

死んでみれば次の世はあるものの、殺された往時の怨念は当時のままに残留する。

いわゆる怨霊である。

それを処理してあげないと消えない。

だから怨霊はあの世の存在ではない。臨終の強い念は働きにおいては独立した存在だという。

霊狐さんに言わせれば幽霊は現世の存在なのだ。

 

鈴被り金太郎

大きくなった金太郎。顔を見に北海道は札幌まででむいてから早一年。

黒猫というより不思議なムラサキ猫になりました。これって珍しくない?

毛色のほかにもこの子には不思議な癖もあります。

鈴をいっつも首のうしろにかぶっているんです。普通来るはずの前に来ない。

どういうわけだろう・・・?

名付けて「鈴被り金太郎」

 

人生不可解 大いに結構

「巌頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。」

藤村操、18歳、明治36年5月22日

この文を残して華厳滝に飛び込んだ。

なかなかの名文。

教養の深さ。人品の高潔さのほどがしのばれます。

 

ただ、仏教的にえば「分別智」の極致だ。

人間の思慮分別を超えるものはあって当たり前。

所詮人の知恵は生きるためのもの。

生きるために必要なことしかわからないようにできている。

生き物は総じてそうしたもの。それ以外の真実などどうでもいい。

人生不可解、大いに結構。

不可解だから面白い。

不可解なればこそ我生きる。

進歩のない信仰

聖天さまは気前がいい。

最初は「俺の利益はこんなものだ!」とドドンとご利益くれる。

だからそのたびに甘えて祈る。

 

だけど、どこまで行っても志のない祈り。

単純な自分の欲願だけしか追及しないなら…聖天様の目の色は暗く恐ろしい色に変わる。

祈願の大小は関係ない。質の問題だ。進歩の問題。

 

そこを勘違いして「ここの聖天さまは最初はご利益あったんだけど最近ダメだわ・・・」とあちこちさまよっても無駄だ。

そういう問題じゃないから。

 

でもいくら拝んでも初めから何にもご利益ない人はどう考えたらいいのだろうか?

のっけから聖天さまが人となりを見て「お前はもういいかげん、気づかないといけない時期にきてるのだぞ」ということだと思います。

いつまでも前に進めない人に。聖天様は愛想はやがてなくなると知るべきでしょう。