シン・ウルトラマン見てきました。
シン・ウルトラマン見てきました。
プロローグではウルトラℚの怪獣が盛りだくさん。
音楽も40年以上前の旧作品に準じているので斬新さの中にも懐かしさを感じて「ウルトラマン」感がしっかりもてる作品。
お話はストーリー性があって個人的にはシンゴジラより面白いと思いました。
シンゴジラは怪獣映画というより災害映画の感じ。
この映画ウルトラマンの怪獣がもう2匹くらい出てもいいような感じはしました。
興味深いのはウルトラマンの巨大化技術を手に入れようとする各国の駆け引き。
それに乗じる外星人。
救いがたい人間の欲とあざとさは怪獣よりよほど救い難く、悪辣だ。
ただ食糧欲しさに地上に出てくるだけの怪獣などむしろ善良なものだ。
エヴァンゲリオンの庵野監督だけあって、敵が怪獣、宇宙人、そして○○と次々とかわっていく急展開さは実に彼らしい。
昨日、県警本部から電話がありました。
昨日警察から電話がありました。
何か?と思ったら保護動物の預かり要請でした。
神奈川県の動物愛護保護センターのほうでうちのことをきかれたのでしょう。
怪我をした鳥や扱いのわからない爬虫類などが持ち込まれ大変困っているので協力できるかというお話でした。
できうる限りご協力しまうすということでお返事しました。
まあ、大蛇とかは困るけど。(笑)
終戦の決め手
軽量な榴弾砲90門が大活躍。加えてドローンの攻撃。
目下はこのふたつで敵戦車大隊を粉砕して早期終戦へ持ち込めれば上々だ。
日本の左翼のように口で平和、平和、反戦、反戦というだけで何もしなければ戦争は止まない。侵略者の暴力に蹂躙されるだけだ。
私は侵略戦争に反対だが防衛戦争は当然支持する。
志を持つ人の死後
「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」と遺誡して亡くなった伝教大師。
いわば大師はご自分の葬儀を否定しています。
大きな志ある人に限っては葬儀をしてもらわなくても迷わない。
つまり送ってもらわなくても自分で往く。
これは大師だけでなく志ある方はそうなのだと思う。
弘法大師も自ら兜率天に言って後進を見守る。
励む者はこれを助け。そうでないものは不幸となるだろうと遺告にあります。
実際は弘法様も伝教様も御遠忌などいまだにしてはいるけど、それは徳を慕うという意味が大きい。
こうしたご遠忌は伝教大師の冥福をお祈りするというより徳の高い方を供養してわれわれが自らの功徳となるほうが大きいのではないかと思います。
とりわけ強い志、誓願を持つものは死後を自分で予測できるのでしょう。
だからひとに弔ってもらう必要はないといえる。
我々は徳行においてはこれらの偉人にくらぶべきもないが誓願が持てるならそこは同じではないのか。
ただ極楽や浄土に往生したいと願うのみならず、死後の誓願を決めていればそれを果たすべきところに願生できるはず。
そうなるにはこの世ではこうありたいというだけでは不十分です。
晩年もそして死後も貫く志を持つならばそのようになるのではないかと思います。
また同じ心を持つ有縁の方々が臨終にはやってくる。
天台大師は臨終に先輩や師僧、観世音菩薩は迎えに見えたと言います。
そういうことはあると思う。
お迎えのあるような死を迎えたいものです。
ピンと来ない話
最近は少なくなったけど、朝になると子供ずれできて「聖書のお話を」という宗教がありました。
知っている人も多いでしょう。
今は布教方針が変わったのかも。
あんまり頻繁に来るので「朝は忙しいんで困ります。そんなに話があるなら聞いてあげるから時間を決めてきなさい。」といってら二人組できた。
上がってもらって話を聞いたが別に信仰を変えるような何ものもなかった。
そもそもこの人たち、なんで信仰はじめたのかな?
こうやって説得されたの?
そんなのは違うだろ。
信仰は理屈で入るわけじゃないから。
まあ、話を聞いたは聞いたんだろうけど、なんかピンと来たんだろうね。
でも私は全然ピンと来ない。
ただそれだけのことだ。
宗教なんてそういうものじゃないのだろうか。
理論武装でくる宗教ほどピンとこない。
へえ~お前さんそんな話で信仰始めたのかい?とむしろあきれる。
うちは説得なんかしませんよ。
ピンとこなきゃやめときなさいよ。それだけ。
ピンと来たという人でも私がピンとこない人は断ることもあるし。
拝めないとき その2
外部への出張旅行や忙しくて観ず目状態で拝めないとき。
心の中に本尊のイメージをしっかり描ければそれで充分です。
そしてこころで手を合わせて「お守りください。」の一言で十分です。
他に何もいらない。
これならちょっとした時間でも拝めます。机の前だろうが会議中だろうが。電車の中でも飛行機の中でもできるはず。
そんなのはダメでしょ。チャンと拝めないなら、いっそ何もしないほうがいいというのは愚かなこと。
お経読んだり念誦したりは実はこのためのもの。
この心を培うのが勤行というものです。
密教の行法だってギリギリにせんじ詰めればこれだけだ。
エッセンスは他にはない。
もしも、それが全然できないというなら、たとえ何年信仰してもダメだ。
今までの拝み方もなんか全て間違っていたという以外ない。
いわゆる空念仏だ。