「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」と遺誡して亡くなった伝教大師。
いわば大師はご自分の葬儀を否定しています。
大きな志ある人に限っては葬儀をしてもらわなくても迷わない。
つまり送ってもらわなくても自分で往く。
これは大師だけでなく志ある方はそうなのだと思う。
弘法大師も自ら兜率天に言って後進を見守る。
励む者はこれを助け。そうでないものは不幸となるだろうと遺告にあります。
実際は弘法様も伝教様も御遠忌などいまだにしてはいるけど、それは徳を慕うという意味が大きい。
こうしたご遠忌は伝教大師の冥福をお祈りするというより徳の高い方を供養してわれわれが自らの功徳となるほうが大きいのではないかと思います。
とりわけ強い志、誓願を持つものは死後を自分で予測できるのでしょう。
だからひとに弔ってもらう必要はないといえる。
我々は徳行においてはこれらの偉人にくらぶべきもないが誓願が持てるならそこは同じではないのか。
ただ極楽や浄土に往生したいと願うのみならず、死後の誓願を決めていればそれを果たすべきところに願生できるはず。
そうなるにはこの世ではこうありたいというだけでは不十分です。
晩年もそして死後も貫く志を持つならばそのようになるのではないかと思います。
また同じ心を持つ有縁の方々が臨終にはやってくる。
天台大師は臨終に先輩や師僧、観世音菩薩は迎えに見えたと言います。
そういうことはあると思う。
お迎えのあるような死を迎えたいものです。