何十代も前のご先祖様が現れてお告げがあって・・・というようなことがある。
私の修行した大井の聖天様・大福生寺にも、むかし、そういう体験をした古い御信者様がいて「桜咲く小高い丘に地蔵を祀れ」といわれて大福生の境内に祀ることを許されて、今にその地蔵尊もある。
この地は実はむかしは土佐山と言われ、幕府から与えられた土佐藩所領の地であった。
ゆえにその昔は「土佐山聖天」とも言ったそうだ。桜もあり、まさに小高い丘だ。
あの界隈では一番高いところである。
寺の前を東西に走る道も比較的高い場所にあり。今は建物が多く見晴らしはできないが今でもその名を「見晴らし通り」という。
こういうご先祖は輪廻転生しないで何百年も霊の世界にいるのかというとそうではないと思う。
転生しながらこの世の子孫や人々のことを憶念している。
その思いはどこに転生しても残る。勿論本人は意識していなくてもつながっている。
まあ、プラスの残留思念といえよう。
仏教の言葉で近いものを探せば「誓願」だ。
「衆生尽き、虚空尽きなばわが誓願も尽きなん」と言われた弘法大師は兜率天の内院。弥勒菩薩の「摩尼宝殿」におわすが。四国遍路の場ではたびたび大師の示現に合う話は多い。遍路していてなんらかのかたちでお姿を見たり夢に大師が出てきておかげをいただく体験も少なくない。
今も大師は活動されている。
それは大師に強い誓願があるからだ。
誓願のスタイルこそ違え、ほかの祖師がたも同じだと思う。
誓願のゆえに自然とそうなる。
「無作の三身」仏には法身、報身、応身の三身が同時に無作為に存在するという。
三身自体は無作為でも「大悲の誓願」がそこにあってはじめてそうなる。
法華経でいうなら「毎時作是念 為何令衆生 得入無上道 即成就仏身」が釈迦牟尼の誓願である。
我々の先祖の中には徳高くして大悲の心で子孫やのちの世の社会を深く憶念する人もいる。
生死を超えた「志」を「誓願」という。
真に偉大な方とはそういう方だ。
大悲誓願のゆえに時空を超えて活動する。