では喜怒哀楽の感情のまま生きればいいのか?
そこは違う。
それでは大波に翻弄される小舟のような人生になる。
修行の存在はそこにない。修養もない。
そしてこの考えはせんじ詰めれば自分以外の衆生は眼中になくなる。
ならば、どう言う修行が必要か。
小舟を杭にしっかりつなぐ修行だ。
そうすればいかに波風荒れようと流されない。
その杭を大乗仏教では「上求菩提下化衆生」に置く。
「上求菩提 下化衆生」はスローガンではない。
生き方だ。
この二つは別物ではない。
衆生を思うがゆえに菩提を目指し、
菩提を完成させるためには衆生を想う。
衆生抜きではありえない。
それが大乗仏教の在り方と思う。
超然と一人孤高の境涯にある色究竟天の大自在天のような境涯や、心の働きを極限まで無くした無色界は大乗仏教の目指すところではない。
故に六欲天の兜率天から釈尊は地上に降りられた。
普賢菩薩十大願の「恒順衆生」
大乗の心は伝教大師の言われた「道心あるもの」
弘法大師の言われた「衆生尽き、虚空尽きなば、我が願も尽きなん」の心だと思う。