「九つには その心念々に五塵六欲は外の楽にして、けだし微なり、三禅の楽は石泉の如く、その楽内に重しとおもうは、此れ梵心を発して色無色の道を行ずるなり。」
無色界は欲界、色界の上に位置する上位の世界。
欲界は欲望の世界
色界は欲望希薄な存在の世界
無色界は一種の精神だけの世界
具体的には瞑想の究極の世界 サマージの世界。
ひたすら禅定楽にひたる。
ですが天台宗の考えでは無色界とは言え物質がないわけでもない。
なぜなら色心不二なので厳密に心だけの衆生はいないと考えます。
法華経方便品第二の末尾にある「十如是」の考えですべての衆生には「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」が伴う。
如是は真如に即した衆生の十の性格。
すがた、性格、かたち、能力、そのなすところ、きたるべき因 きたるべき縁 来るべき結果 来るべき次の展開 それらすべてが最初から終わりまで実相真如を離れていない。
前五つはそのもの性質を語り、のちの五つは時間軸での存在を語る十如是。
この中の「如是体」があるので体のないものは衆生はないと考える。
無色界は非想非非想処・無所有処・識無辺処・空無辺処の4つの区分けがあります。
非想非非想処。思うでも思わないでもない世界。
無色界の衆生は常に瞑想状態で三昧に入ったままです。
でもそれでは大乗仏教の見方では一種の現実世界からの逃避行でしかない。
なお、誤解しやすいが厳密にはここは天界ではない。
なので「無色界天」という言い方はしない。
天界は「色界天」まででその一番上を色苦境天とか有頂天という。
大自在天 シヴァ大神の住む世界です。
ようするに場所としては存在しない世界。
天台では天部のうち大黒天を大事にしますが、これはひとつには大黒天はもともとシヴァの憤怒相で最も高い天界に住む上界天だからです。
この無色界は瞑想に入ったままを望む修行者の世界です。
まあ、リシと言われる大仙人などの境涯ですね。
常に三昧にいる。
いいようだがいいとしない。 かつ深い禅定に浸って楽しむ快楽主義でもある。
快楽主義でもいいがやることがある場合は困るね。
お釈迦様も瞑想によって無色界の境涯にもいかれたが。もっと現実に即した境涯で悟られたという。
そうでないと現実世界の救済はできない。
大乗仏教では自分が悟りや三昧に入ればそれで終わりではないと考えるからです。