金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

未来型聖天壇 上願寺の浴油加行開始直前

ふちをアクリルで伸ばした上願寺さんの聖天壇、なんか未来型の感じ。

洋風仏壇ならぬ洋風聖天壇?藤川住職の公案です。

この透明感はなんか新しい感覚でいいかも!

浴油時以外は上に抜いて外せることもできるようです。

こちらの尊天は巨大な羯磨型(二天尊が抱き合って前を向く形)なので、用意された一尺の特製タラです。大きい‼

正直大きい聖天像は浴油が結構大変ですが、これより藤川師は300か座の浴油に入ります。

上願寺は薬師如来がご本尊。

講員制度ということなく、どなたにも門戸を開いています。

上願寺の住職はわが門下です。

私は弟子の寺のありかたは弟子が自分の個性で決めていけばいいと思っていますが・・・

しかしながら・・・藤川住職は私の在り方を見てきてやはり聖天様に関しては何か枠組みが必要と思っているようです。

我ただ足るを知る

「我ただ足るを知る」という言葉があります。これは欲しがらないで我慢の意味にとられますが、本当にこのことがわかるにはまず足らないといけない。
足りるまでは聖天さまは面倒見てくださる。

だがそこから先は違う。企業でもシェア独占で儲けるだけとことん儲けたいなどというのは貪りです。
天尊の御意にかなわない。
聖天信仰で成功してもしまいに全てを失うのはこのパターンです。

こいつは助けたくないな、そう思われたらもうどんなことしてもダメです。
それが聖天さまです。

ふりむけばそこに精神疾患

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黒いスーツに身を包み、ベルトを持って会場に現れた武尊は、6月19日におこなわれた那須川天心(23)との試合について、ファンや関係者らに感謝の意を表明。続けて、腰の分離滑り症や前十字靭帯損傷など、これまで公表してこなかったさまざまなコンディションの不調を抱えていることを明かし、コンディションを正常に戻すため、格闘家としての人生を無期限休養期間とすることを発表した。  また肉体面だけでなく、精神面でも不調に苦しんでいたことを告白。数年前から精神科に通っており、パニック障害うつ病と診断されたことを語った。本人は「公表するか悩んだ」としながらも、「一回、しっかり休んで、最高の心と体で戻ってくる」と、涙を浮かべながらも前向きな決意を表明した。

 

うつ病やパニック障害は珍しくない。

現在までの私の周囲にも決して少なくない。

精神疾患というと「え!精神疾患?」というが、肉体だってよく病気になることはあるだろうに。

心だけは病まないとは言えない。

 

私自身、神経症やうつ病もあった。

正確にはそれらしきものだ。

 

一回も医者に行かず終いだからわからないけど、今症状から思えばそうなのかも…

いずれも私の場合は急性の時は松江先生の漢方薬を処方していただくか、日常的には濱地天松居士所伝の金剛禅により回復させてきた。

 

座禅が良く精神疾患を癒すのはリラックス状態だからでも脳からアルファー波やシータ波が出てるからでもない。

ただのリラックスならば心を休めはするが、日常の喧騒に戻れば元の木阿弥だ。

それ以前の仏教的な思想背景への理解がものをいう。

きわめて乱暴に言うなら空理により本来自我も心も存在しない。

仮にあるだけのものという理解がこころの病を回復させるのだと思う。

 

ないものが悩んだり、病んだりしようがないからだ。

理解といっても知的理解だけではなかなかそこまでいかない。

いうなれば小さな悟りがあってこそ病を除く。

 だからただリラクゼーションだけでは不足だと思う。本当に休まるには観の転換 コンバージョンが必要だと考えています。

そんなものになってたまるか!と思っていると案外簡単になったりする。

昔は心を病むことは心が惰弱だからだと言われる時代もあった。

それでさらに一種の罪悪感まで生まれ、精神疾患をひた隠しにする二重苦にさいなまれるのだ。

今でもそういう傾向がないとは言えないかもしれない。

でもそれは全くの馬鹿げた考えなのだ。

武尊選手のような厳しい克己心に裏打ちされた素晴らしい選手でさえなるときはなる。

それが精神疾患。振り向けばそこに精神疾患。

まず病気に対する自分の罪悪感のようなものがあればそれをさっさと捨てよう。

それが治療の第一歩だ。

 

 

 

 

 

 

人間なればこそ牛の痛みも知ってほしい

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生き物を殺し合わせて楽しむ。野蛮なことだ。

 

死者まで出たのだから実に気の毒だというべきだが、人間の傲慢の方が鼻について心底悼む気にはならない。

観客の諸君も痛みを知ったら牛の痛みも知ってほしい。

そういう思いやりこそ人間だからできることだろうと思う。

「その考えはとんでもないことだ」と言われてもそう思うものは変えられない。

変える気もさらさらない。