今は何かにつけ公平だの平等だのといったことに異常に敏感な世の中だ。
だがそれもほどを越せばただのひがみ根性ではないかとさえ思う。
この前テレビで大峰山で千日行を果たしたS師の番組を拝見した。
そのときS師の母上の話がでていた。
S師が少年時代にある親切行為をしたのに相手がお礼を言わなかったという不満を母上に申し上げたら、なんと「お前は善事を行っておいて人からお礼を言われたいとは何事か」というお叱りを頂いたという。
なるほど古来偉くなる人の母上は立派な人物だというがそれは本当のようだと思った。
だが、この母上も逆に我が子が人に親切を受けていながらお礼を言わなかったとなればそれはそれでまたお叱りになったことだろう。
いいかえるならそこに我が子と他人との公平にこだわる考えはない。
成長する人物としての「ものの考え」こそが大事と考えるのだ。
現代ならお礼を言われたらこちらも言うべきだというし、言わなくていいならお互いに言わないでいいという感じだ。
世の親もS師の母上のようなことを我が子に言う立派な人は至って少ない。
どちらにしてもそうでないとフェアじゃない!とかすぐに考えてしまうだろう。
中には子供の扱いがフェアじゃないと思うとほんのささいなことでもすぐに文句を言いに行く親もいる。
集合写真の真ん中にうちの子供がいないなどと言う苦情や演劇は全員主役などと言うバカげた児童教育は私的には噴飯ものだ。
そういう考えでは本当の人物はできないのだはないだろうか。
そしてこの考えでは修行もまたできないと知るべきだ。
人はどうあれ己は己のあり方を考えることこそが成長し偉大な人物を作る考えだ。