どうしても行をしたいというので出だしに法華経の全巻読誦をするように指示した弟子が、読みだしたら霊が来て・・・という。
この御経だけじゃなく宝筐印陀羅尼が必要なのではないか?と言ってくる。
さらに施餓鬼しなきゃダメなのでは?とかいってくる。
施餓鬼など今の段階でできるわけない。
法華経には読経すれば必ずそこに聴聞のために冥衆が降臨することになっている。
法華経に書いてある。
たとえば法華経の陀羅尼品に言うように鬼子母神の眷属は曲歯、華歯などと言う羅刹女もいて本当は歯をむいた恐ろしい鬼女の類である。
ちなみにインドではラークシャサ(羅刹女)は歯並びや形が尋常ではないという。
外にも持国天の眷属は半獣神の乾達婆だ。恐ろしい姿の彼らは御経の中で必ず持経の人を守る誓願を立てている。
だからこの人の言うように何か餓鬼のようなものが来たというのは正解かも知れない。
そこを認識するまではオーケーだ。だがそこまでだ。彼女たちは害意などない。
むしろ持経者を守るために降臨している。施餓鬼など無用だ。
法華経読誦は法華経読誦であってほかのなにかの修法を足さなくてはダメというような行ではない。
仏縁のない行者は与えた課題にとりくまずに必ず別なものをさら望んでくる。
それが改まらない人は護法神から嫌われ道場を早晩去ることとなる。
それはどこの道場でも同じだろう。
話は変わるが霊能者でも御経を読むと霊が集まるから、自分のとりまきには読んでは雑絶対にダメとか言う人もいる。
そのくせ自分は読んでいる。
ご自分は霊力が高いから大丈夫とでもいうのだろうか。
矛盾した話だ。
所定の行が終わるまでは何も授ける気はない。そもそも顕教に施餓鬼はない。
自分でやりたいようにしたいなら何故この人は私に師事しようと思うのだろう。
時々そういう人がいる。
自分の感覚で自由にやりたければ、わざわざ私の門下で行などする必要はないのに。
私も面倒くさいことをいいたいわけではない。
弟子になるということは師がしなさいということだけを素直にする。
それが師事するということなのではないだろうか。
少なくとも私はそう思ってきたが・・・