延命法というのは密教六種法の一つであり、別尊法としては普賢延命、准胝仏母、白衣観自在、尊星王、閻魔天などを祈ることが多いが、長生きは一つの理想であるから万人等しく求めるところである。
そうそう長生きしたくはないなどといってもいざ死ぬとなると大抵の方は大ごとだ。
わが師匠は命終の迫る状況の老人や病人においては延命法はしなかった。
また、すべきでないといわれた。
なにごとにも自然な終わりというものはあるからだ。
病人の家族にしても、そうなったらむしろ後生のために光明真言や念仏などを誦えてあげることが良いと思っていたようだ。只、今死なれては困るというような事情のあるときにいつまでということで祈ることはあった。
お年寄りでなくても、近所の人から出張の日に急性肝炎の祈祷と頼まれて、いろいろ考え併せ、その人はもう今日一日もたないからと祈願を断ったこともあるといっていた。
出張を優先するためにそう言ったわけでない。案の定、日没を待たずに亡くなったそうだ。
今の人が考えれば宗教家なんだからたとえ、ダメでも向き合ってやればいいのに…と思うかもしれない。
それも一つの考えだ。
だが私の師匠は祈祷は気休めとは思わない人だ。
例えばもう切っても助からない人を本人の気休めで手術する医師はいない。
優れた医師であればあるほどそのような無駄はしないだろう。
師も同じ考えの人だった。
私はまことの行者ならそう思うと考える。
一方、最愛の家族が死んで信仰を捨てる人も多い。
あれだけ神仏にお願いしたのにたすからなかった…ガッカリだ。
そういう気持ちは理解できる。
だが死なない人はいないのだ。
しまいに死んだだろ!と文句を言うのは意味をなさない。
宗教とは生死を超える価値観の世界だ。
昔は年を取れば念仏三昧でお迎えに備えるというような人も多かったし、そういう緩い習慣もあった。
今は死は敗北なのだろう。たとえ平均年齢が90歳や100歳を超えてもこの考えは同じだろう。
葬式を丁寧にしないのも死を生命の過渡期という認識はなく、もうすべてジ・エンドだと思うからかもしれない。