18日のお護摩の後。今日は何をしゃべろうかと思ってら、「今日は何か質問を受けてみろ」と霊狐さんがいうので・・・聞いてみると
「仏教では自分の命をたつと成仏できないのですか?」という質問が出ました。
自ら命を絶つ、キリスト教などでは絶対いけないそうですね。
石田三成に人質に取られた細川家の夫人ガラシャはキリスト教徒で自害はできないので家来に槍でついてもらったと言います。ガラシャは洗礼名です。
本名はお玉様だそうです。
でも仏教はお釈迦様自らその前世で自殺しています。
例えば捨身飼虎のおはなし。
飢えた虎の親が仔虎を食べざるを得ないとみた釈尊は前世で自らの体を虎に与えて、その悲劇を救ったと言います。
玉虫厨子の扉絵にもなっているお話です。
ここで大事なのはこの話の意味です。
ただ死ぬことの否定ではなく、なんのために死ぬのかということでしょう。自分の死が誰かを生かすためなら・・・場合によってはそれは許されるのが仏教の考えでしょう。
最近では医療が進んだせいか、とっくに死んでいるであろうはずの人がたくさんのチューブでつながれ、機械とつなげられ、意識もないまま生きているという例もあります。
今死なれると…という社会的事情も場合によってはあると思いますから、延命処置そのものを必ずしもいけないとは思いませんが、これはもう本当は死んでいるはずも方なのではないでしょうか。
延命処置を望まないことを私は仏教の禁じる自殺ではないと思います。
私の父の場合もいよいよの時は延命処置はいりませんときっぱりお断りしました。
そして実際、私は多くの方の安楽死を御祈祷してまいりました。
それが本人を救い、家族を助けることなのだとと信じられたからです。
「早めの祈祷」と言いますが、これは決して人を殺す御祈祷ではありません。
寿命があればかえって回復に向かう御祈祷です。そんなわけで白黒つけるために祈るというのも正直あります。
どこまでも人為的に心臓を動かしておくのが仏教の言う生きる意味ではないでしょう。
最近では人工透析を断って亡くなった信者様宅の話も聞きました。
自分の体で生きられないならあえて生きないという決意なのでしょう。
与えられた天寿を生きる。
それが本来ではないかと思います。