如意輪様はほほに手を当てる姿。
実はどうやって衆生を救おうかと思案していると言われている。
だが、迷い深き私においてはその御姿から「救いとは何なのか」と思われているように連想してしまう。
宗教的救いとはなんだろうか。病気や貧乏や人間関係の解決、向上。
こういう救いも大事だがこれは宗教でなくてもできることはたくさんある。
医学、科学技術、精神医学、経営学などなど・・・
むしろ宗教がダイレクトに扱わない部分だ。
宗教ならではの救い。
極楽や天国という理想の世界に死後に生まれることを願う。
それも結構だが、それだけでは未来に望みをつないで今を忘れるということにもなりかねない。
一人ならまだしも家庭を設けてそんな無責任な生き方はどうなのだろう。
遠離穢土・欣求浄土は結構だが、それなら子供から言うなら「なぜ、この酷い穢土に私を産んでくださったのですか?」ということにもなる。
生んでおいて世の中の醜いこと、心惹かれることもは皆心に染めず死後の救いを目指せではおかしかろう。
実際アメリカではこの世はひどいところので子供を産んではかわいそうだと考える人たちも少なからずいると聞く。
世の中の多くの人が宗教を信じているが、客観的な境遇だけ言うなら無宗教の人と各段の差があるわけではない。
両者の違いは神仏の目というものを意識して生きていく生き方か否かということに尽きるだろう。
そのいつも仏が慈悲深く我らを見ているのだ「慈眼視衆生」という思いがあることこそが実は救いそのものなのではないだろうか。
他の宗教でいうなら神や至高者は常に私どもをみそなわしたまうということだろう。
大悲者たる如意輪尊の心はわからぬが、大愚者たる私はそんな風に思うのがせいぜいだ。