講員と非講員の違い、それは大祭や感謝祭に参加していただいたり月報を送ったりといろいろあるが・・・それは外見のお話。
外部の信徒様でいても月報読んだり(送ってはいません)、大祭にお札を頼むとかは可能です。
でも、わたしとしては講員様は本尊よりご縁をいただいた存在だと思っている。
そこにはこの方に対して私のすべきお役があるのだと思う。
はっきりしているのは在家授戒だが、ほかにもあるのだろう。
無論、講員様の側にもすべき何かがあるのだろう。
勿論縁の切れる方もいるが、それにしても何かが必要だから一時的にいしてもおいでだったのだろうと解釈している。
うちはもちろん辞めるのは自由だ。別段、とめもしない。
信仰は一生のものだが、それは本人がきめることだ。
ただ、初めから何年間だけとか、祈願が叶うまでの間だけいう方はお断りしている。
そういう聞き方をした人も心中はそのようなものだろうからいざとなれば断る。
信仰に対する考えが違い過ぎる。
そういうものではない。
そういう方とは縁はないと思うからだ。
ことわるのだけは当方の権利だから。
だからやめればもう再入会はない。私の役目は終わったのだと思うから。
その役目が何なのかまではわからない。一期一会ということもあろう。
でもわかってもわからなくてもそこは問題ないと思っている。