最近飯縄様で一般の皆さまの祈願をしています。
講員様向けじゃない。
「聖天様で是非!」という人もいますが「聖天さまは講員対象の祈願ですから」とお断りしている。
でも講員さんでも聖天様は聖天様ですでにお参りしている聖天様の信仰は大事に続けなさいといっているので、講員になったから即、祈願は聖天様というわけでもない。
○○寺の聖天様を信仰して事あるごとにお札を頂いている。
それはそのまま止めずに続けて頂いて、そういう人の祈願には十一面観音をお勧めしている。
これに対し祈願フォームでは難しいことは一切おたずねしないことにしている。
フォームの中に詳しい事象を書く場所は設けていません。
なぜか。
詳しく事情を聞いたら、場合によってはそれなら・・・あれもしなきゃ、これもしなきゃということになる。そのためもっと突っ込んで聞きたくもなる。
例えば今、大限破門殺だとか言えばその除け、移転後によくないことがだと方位除け・・・とかやることはどんどん増えてしまう。
4か月はつづけたほうがいいとか、(それが時間的に事象の星の変わり目なので)そういう余計なことになる。
でも、そういう「あれもこれ必要」は一般の方にはなじまないでしょう。
人によってはなんかあれもこれもでいらない余計な事させられているように思うかもしれません。
なので「事情は聞かない、アドバイスはしない 祈願のみ」であとは祈願の種類と大きい祈願にするか小さい祈願でいいかを決めて頂くだけになっています。
本式に祈祷するなら病気なら病気でいつからか?どういう病気か?
今の星の位置はどうか?とか相談と同じようになる。
それで詰めてはじめて何をすべきか有効な手段を決めていく。
だからそういう相談で詰めていくのが従来型のうちのスタイルです。
いきなり祈祷はしない。
師匠の代からそうです。
でもそんなことしているお寺はきわめて少ない。
ただ御祈願の名目と住所、氏名、祈願料を紙に書いて出すだけのところがほとんどだ。
大きい寺院ほどそうなるよね。そう、相談なんかしていられない。
稀に人生相談とかしているとこあるけど信仰とか祈願とは全く別枠で心理カウンセラーや法律家などが話を聞いてくれるサービスになっている。
で、基本、信仰のありかたや祈願とは関係ない。
こういう簡略なスタイルでやるのと相談つめて何をするか決めていくのでは全く違うけど、簡略でいい人もいっぱいいる。
講員とかまではなりたくない人も沢山いる。
こちらも同じだ。
別に祈願ということだけで不本意なのに講員にまでなってほしくなんかない。
そういう気はさらさらない。
むしろ断る。講員は信仰の人、祈願の人ではない。
そこは一般とは分けています。
変な言い方だが講員はある意味、一種の身内と思っている。
もちろん赤の他人だけど私ではなく本尊様の身内。
だから場合によっては、あれどうなったんだろうとか、あの件大丈夫かな・・・?と気をもんだり声かけたりもします。
私は本尊様の番頭ですから、私と講員様の接点は本尊だけです。
だからその人と本尊様と縁が切れれば、その時点で私には関係ないから何もこころにはかけない。かけるべきではない。
逆に迷惑でしょうし。
そこは何年在籍した方であろうが宮本武蔵ではないけど「いずれの道にも別れを悲しまず」そう思っています。