当院では聖天信仰は俱生神信仰というスタンスが根底にある。
人生に生き詰まったら聖天信仰。
ただ憶えていてほしいことは腰掛にはならないのが聖天様です。
「お陰でよくなった。聖天様。さようなら。」
それではいけない。
「おいおい、なんだよ。」と言われます。
聖天様と人生を歩む気でないと。
なぜなら聖天様と一緒になったら人生大改造が始まる。
時間をおいてか、すぐにかは人による。
聖天様にあれ叶えて。今度はこれ叶えてというばかりの信仰はほんの上っ面だ。
そういう覚悟がいる。
だからずっとお付き合いしていくつもりの講員さんでないと聖天様の御祈願はしませんと言っているのもそういう意味がある。
覚悟ない人には勧められない。
児島流の真興阿闍梨は聖天様を俱生神としている。
俱生神とは文字通り生まれてから死ぬまで私たちと一緒に生きてる神様。
本当は生まれ変わっても縁は続く。
俱生神としての聖天信仰が本当なのだと思う。
本有の俱生神。聖天様はそうだったんだと気が付くのが大事。
思うに縁あって聖天信仰している人にとっては聖天様は「すでに私のそばにいたんだ!」という神様です。
それまではじっと見ている。
それで知らないでいたらある日いきなり肩をたたいてくれる。
それがはじまり。
お不動様、観音様、阿弥陀様、色々信仰していても構いませんが、普通の御本尊はこちらからアプローチする存在です。
そこは聖天様は向こうから迫ってきます。
どんな神様かよく知りたかったら生駒の湛海上人の伝記みたらよくわかる。
まあ湛海さんは別格ではありますが。
「だって、お前とはコンビだろう。」といわれます。
今日からは聖天様と二人。
それが本当の聖天信仰だと思います。